ショーケン最後の役「高橋是清」のドラマチックな人生

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アメリカで奴隷に

 亡くなったショーケンこと萩原健一さんの最後の仕事となったのが、NHK大河ドラマ「いだてん」での高橋是清役。6月~7月にかけて、その姿が放送される予定だという。
 萩原さんの死去に関連する報道では、その人生の浮き沈みをドラマチックに伝えるものが多かった。アイドルとして人気を博した後、役者に転向、数々のトラブル、逮捕歴、華麗な女性遍歴等々。

 高橋是清の人生もまたそれ以上に波乱万丈なものだった。学校の教科書的な記述でいえば、「蔵相や首相を歴任して、2.26事件で暗殺された政治家」ということになってしまうのだが、そんな理解だけではもったいない。是清の人生は、萩原さん同様、女性との興味深いエピソードにも彩られているのだ。
 これを機に、是清を知ってみようという方のために、福田和也氏の新著『総理の女』をもとに、その人生を辿ってみよう(以下、引用はすべて同書より)

 高橋是清は1854年生まれ。幕府の御同朋頭支配絵師の家の主人と、奉公人だった侍女との間に生まれた私生児である。生まれると、実子として認知はされたものの、正妻との間に6人の子供がいたので、生後3、4日で仙台藩の足軽の家に里子に出された。
 ここで大いに可愛がられた是清は、12歳の時には藩のお達しで横浜に洋学修業に出る。このとき、同朋の鈴木六之助のアメリカ留学が決まったという話を聞いて悔しくなり、先をこしてやろうと、イギリスの捕鯨船に乗り込もうとした。密航を狙ったのだ。
 もっとも、出航を待っている間に自分も藩の代表としてアメリカに正式留学できることになったので、密航はしなくてすんだ。

「サンフランシスコに到着した是清と鈴木は、当時横浜で商売をしていたヴァンリードという商人の両親の家に世話になった。
 はじめこそ待遇はよかったが、そのうちに食事は夫妻の食べ残しになり、勉強する暇もないくらいこきつかわれるようになった。鈴木は真面目に働いたが、是清はさぼりまくったので、夫妻は是清をオークランドの金持ちの家にやってしまった。
『あっちの家に行けば、勉強を教えてもらえるぞ』と言われ、悦んで書類にサインをした是清は後に、その書類が3年間奴隷として働く契約書であったことを知らされる」

 幸い、仙台藩の留学生の先輩の尽力で、何とか奴隷の身から解放されて日本に帰国することはできた。帰国後には、のちの文部大臣、森有礼の世話で、設立されたばかりの大学南校で教員の職を得る。
 ところがここで「茶屋遊び」をおぼえてしまう。要するに芸者とドンチャン騒ぎする愉しみを知ってしまうのだ。

「あるとき、芸者たちと一緒に浅草へ芝居を見に行き、芸者の襦袢(じゅばん)を着て大騒ぎしているところを同じ大学の外国人教師たちに見られてしまい、責任を取って辞職してしまった。
 何て馬鹿なやつと言ってしまえばそれまでだが、是清は是清なりに筋を通しているのだ。辞表を出したとき、周囲は今回のことは大目にみるから大学にとどまれと引き留めてくれたのだが、『あんな有様を見られて、放蕩についても知られている以上、このまま大学に残るのは、私の良心が許さない』と決心を変えなかったのである。
 そもそも茶屋遊びを覚えたのも、借金返済に困った南校の生徒のために、250両もの大金を弁済してやり、その生徒たちがお礼にと茶屋に連れていってくれたのがきっかけだった。
 損得抜きで人とつき合い、義理人情に厚い人間であったからこそ、周囲は是清を放っておかなかったのだろう」

 とはいえ、無職なので生活は困窮するばかり。ここで彼を助けてくれたのが馴染みの芸者の東屋舛吉だった。当時、日本橋きっての売れっ子芸者でもちろん美人。

「そんな舛吉が金も職もない男に、『私の家においでなさい』と言ってくれたのだから、よほど是清に魅力があったのだろう。
 これ幸いと舛吉の家に厄介になった是清だが、行ってみると、舛吉の両親や抱えの芸妓などもいて、両親は、とんだ厄介者がきたといわんばかりのあしらいだった」

 この頃、彼は舛吉の三味線を持ってお伴をしたり、宴席に迎えに行くなどの手伝いをして日々を過ごしていた。
 そんな生活を周囲が放っておくはずもなく、佐賀県の唐津での英語教師の仕事をあっせんしてもらえることになった。当時、舛吉は是清の妻になるつもりだったし、是清もそう考えていた。育ててもらった恩がある祖母と、舛吉と3人で佐賀で暮らす計画になっていたのだ。
 ところがここで邪魔に入ったのが舛吉の実家。実家に帰ってこいとしきりに言ってくる。舛吉も無下にはできず、結局、是清に謝罪の手紙を出し、実家に帰ってしまった。

「出世のためには自分ではない女性を妻にしたほうがいいと考えたのかもしれない。
 舛吉はその後亭主を持って、日本橋に待合を出し、店は相当繁盛したが、50代で亡くなった。
 もしも舛吉が是清の妻となっていたら、後世に名を残す賢夫人になっていたかもしれない」

ペルーで破産

 このあと、是清は祖母の薦めた相手と最初の結婚をする。2人の息子をもうけ、夫婦仲良く暮らしていたが、結婚から8年後に病身だった妻は亡くなってしまう。
 その2年後、周囲からの勧めもあり、海軍技官・原田宗助の妹、品子と結婚した。是清は33歳だった。
 結婚後、特許局の局長となり、東京の大塚に家も持ち、普通ならばここからさらに実業界や政界に進出するところなのだが、是清はここで大失敗をする。

「ペルーにいい銀山があると話を持ち掛ける者があったので、大金を投資したばかりか、官界を辞してペルーに赴いてしまった。ところがこの銀山が数百年間掘り尽くした廃坑だったのである。
 銀山の大失敗で、是清は家屋敷を含めた全財産を失ってしまう。
 品子にしてみたら、たまったものではなかっただろう。結婚して2年で夫は仕事を辞めて1人でペルーに行ってしまい、大失敗して戻ってきたかと思ったら、ほとんど無一文になってしまったのだから」

 それでも是清はくじけなかった。帰国後、日本銀行の非正規社員である現場監督から再出発した彼は、すぐに頭角を現し、57歳で日銀総裁に就任。その後半生の主な肩書だけ並べても、大蔵大臣、首相、農商務大臣等々。
 71歳で引退したはずの是清は、73歳の時に、時の首相に請われ、3度目の大蔵大臣を引き受けることになる。さらにその後、犬養毅内閣でまさかの4度目の大蔵大臣を引き受け、景気の回復を成し遂げた。
 しかしその後、軍事費の拡大を抑えたために一部で恨みを買い、これが2.26事件での暗殺の原因となる。
 このようにしてみると、まさに波乱万丈としか言いようがない人生だったことがよくわかる。もっとも、だからこそというべきか、家庭には安らぎを求めていたようだ。
 是清の家庭観は古風なもので「女子は家庭で夫を助け、子供を育てる」という考えの持ち主だった。

「型破りの発想と行動で自らの運命を切り開いてきた是清にしては古い考え方だともいえるが、家庭や家庭における教育の大切さを重視しているともいえる。
品 子もそうした是清の考えを受け入れ、生涯家庭を守り、子供を育て、是清を支え続けたのである」

 ドラマチックな人生を送った萩原さんが最後に演じる役としては、これ以上のものはなかったのではないか。

デイリー新潮編集部

2019年5月22日掲載

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