55年前と来年「東京五輪」を2回取材 89歳現役“格闘技記者”の凄すぎる取材歴
ライフワークの内藤克俊
長年、研究する人物が、日本レスリング史上、初めてオリンピックでメダル(銅)を取った内藤克俊(1895~1969)だ。
1895年、広島生まれ、両親を亡くし、台湾に嫁いだ姉を頼り台湾に渡る。台北一中時代を経て鹿児島高等農林学校では柔道部を作った。上京後、講道館で柔道三段となりペンシルべニア州立大学に留学。全米レスリング王者となり「タイガー内藤」と呼ばれた美男はヒーローになる。
排日移民法が制定された1924年にパリでオリンピックが開かれる。米国の議員が駐米大使に「日本代表として出場させると日米関係が好転する」と提案し、実現した。内藤は運悪く怪我で優勝を逃し銅メダルだったが、日本人としてはアントワープ大会のテニスの熊谷一弥(1890~1968)の銀メダルに続くオリンピックメダルの第2号だ。
1969年にブラジルで波乱の生涯を終えた内藤について宮澤はブラジルにも通い、長編記事『遥かなるペンステート―幻の銅メダリスト・内藤克俊の生涯―』(「別冊文藝春秋」1996年秋号)を書いた。「内藤さんの息子さんに渡された銅メダルなどを秩父宮記念館に寄贈しました。工事で閉鎖していますが、紛失しなければいいが」と危惧する。
ほかにも、ロス五輪の柔道決勝で山下泰裕(61)と戦ったエジプトのモハメド・ラシュワン(63)が母国との経済格差からの耐乏生活を『ラシュワン東京・貧乏物語』(「文藝春秋」1988年10月号)で描いた。
今は「胆石の開腹手術で全身麻酔して、あちこち神経が駄目になったよ」などとこぼしながらも、世田谷区内の自宅から東京メトロ丸ノ内線・茗荷谷駅の拓殖大学に通い、拓大百年史の編纂にも携わる。
来たる東京オリンピックについて「柔道男子の重いクラスは厳しい。1964年の大会前と同じ状況ですね。レスリングも4月のアジア選手権では男子は金ゼロ。銀2つは拓大の選手です。いろいろあった女子も多難でしょうけど頑張ってくれるはず。56年ぶりに東京五輪を取材すればギネスに載るのではと他社の友人たちから言われています。もちろん取材陣に入りたいですが古巣の日刊スポーツに聞くと、取材パスを取るのは厳しいらしい。なんとか現場で観戦取材したいのですが」と話す。関係者各位、宮澤正幸氏に特別取材パスを!
(敬称略)
[3/3ページ]