筆を置くにあたって(最終回)
昔、南大阪に1人の長者が住んでいて、その息子の名を俊徳丸といった。弱法師とも呼ばれていたのは彼が目が見えない、つまり弱い法師だったからである。彼は父の元を離れ人々の施物で暮らしていた。私も大阪に生まれ京都で教育を受けたがそれはいわば教育という布施を親から受けたのと同じであった。1952年の11月、船場の我が家では四国・高松へ新聞記者として赴任する私の壮行を兼ね、妹・絢子の19歳の誕生を祝い、すき焼き会を催した。
食後、祖母と父、妹がそろって大阪駅まで私を送り私は夜行列車で高松へ赴任した。
それから33年、私は新聞記者として働いた。55歳で定年になってからは独立して34年間原稿用紙に向かった。合わせて67年、ただ書くことに没頭した人生だった。
55歳の時、脳下垂体腫瘍手術の最中に出血し以後は視力障害者としての老後だった。私は人生を顧みて我もまた弱法師だったとの感慨を抱かずにいられない。現にこの稿も次男と孫娘に口述して書いてもらっている。テレビと縁が切れて三十数年になる。
謡曲「弱法師」も見なくなって久しいが私の記憶では作中の弱法師は天王寺で施物のある彼岸に父と再会する。俊徳丸は姿もやつれ、昔とは姿形が変わっているが、喜捨の品を手渡そうとした父はそれが俊徳丸だと気付く。盲目の目を上げて物を受け取る俊徳丸も、今自らに布施を手渡しているのは父親だと気付く。だが父は敢えて名乗らず俊徳丸も「お父さん」と抱きつくような真似はしない。
俊徳丸はただ西の海に沈んでいく夕日の方角を見る。当時大阪の船場・島之内は一面の海だった。天王寺西門(さいもん)はこの世の行き着く果てであり、あの世の東門に接していると信じられていた。
父と子は沈んでいく夕日を眺め、そこに仏の慈悲を感じ黙って別れるのである。
人生の出会いや別れは、みなこれと同じようなものであろう。私は今「書く人生」を閉じるにあたって同じような思いを抱く。
(口述筆記・徳岡良介、ひらり)