筆を置くにあたって(最終回)
昔、南大阪に1人の長者が住んでいて、その息子の名を俊徳丸といった。弱法師とも呼ばれていたのは彼が目が見えない、つまり弱い法師だったからである。彼は父の元を離れ人々の施物で暮らしていた。私も大阪に生まれ京都で教育を受けたがそれはいわば教育という布施を親から受けたのと同じであった。1952年の11月、船場の我が家では四国・高松へ新聞記者として赴任する私の壮行を兼ね、妹・絢子の19歳の誕生を祝い、すき焼き会を催した。
食後、祖母と父、妹がそろって大阪駅まで私を送り私は夜行列車で高松へ赴任した。...