貴景勝「美人母」と「頑固おやじ」の教育法 やんちゃ坊主を令和の初代横綱へ
周りの学校を“制覇”した中学時代
――親としては、常に心配ですよね。
純子:身体が細身だったので、実はいつか相撲の道を諦めてくれると思っていたんです。小学校6年生の時、相撲の大会を見に行きましたが、周りは170センチ超えのお子さんばかり。そんな中、150センチ弱のうちの子がポツンと立っていました。
それを見て、「いつか相撲をやめるのかな」と思ったんです。ずっと応援していましたけど、心のどこかでは「プロになれないんじゃないか」という予感が消えませんでした。そもそもプロを目指しているということも、小学校6年生の卒業文集で初めて知ったんです。「この子、本気でプロになりたいんだ」と驚きました。
――生まれた時から、小柄だったんですか?
純子:芦屋の市民病院で生まれたのですが、何のご縁か、元横綱の稀勢の里さんも、ここで出生されたそうです。生まれた時は2900グラム。やや小柄でしたね。
ミルクを飲みたがらず、離乳食も口にしようとしない。食べないから、1時間や2時間で目を覚まして夜泣きを始める。1歳や2歳の頃は、どうやってご飯を食べさせようということばかり頭にあって、ノイローゼになるかと思いました。
一哉:骨太ではあったものの、細身だったんですよね。とにかく小食な子供でした。
――胎教もされていたと聞いています。
純子:お腹のなかにいる時から、色々と話し掛けたり、カセットテープで音楽を聞かせたりしていました。生まれてからも絵本の読み聞かせをしていましたが、本人は知らんぷり。ウルトラマンと怪獣を四つに組ませて戦わせていました。その頃から、戦いの遺伝子が組み込まれていたのでしょうか。今思えば、私は詮無きことをしていたのかも知れません。
当時は、子供のために“レール”を敷こうと必死になっていました。勉強させて、いい学校に入って、いい将来を送れるようにとばかり考えていました。芦屋という場所柄もあって、周囲はお医者さんのお子さんばかり。少し焦っていたんでしょうね。
小学校は西宮市にある仁川学院に通わせましたが、1クラス30人のうち、そのままエスカレーター式に進学するのは5人ほどだったでしょう。灘、甲陽学院、大阪星光学院といった、受験に強い中学校に入学するお子さんがほとんどだったのです。
そんな感じでしたから、息子が小学生になると、人に薦められたことは塾や習い事は全部やらせていましたね。塾なら最高で3つ掛け持ちさせていました。公文に通って、中学受験の塾「浜学園」に行かせて、という感じです。習い事もいいと聞いたことは全部させていました。それが幼い彼を追い詰めてしまったのかもしれません。
彼が小学校2年生の時、母の日に一輪のバラを買ってきたことがありました。「どうしてかな?」と思ったら、その日、返ってきた塾のテストの点が悪かったようなのです。怒られないようにということだったのでしょうね。気づかないうちにずいぶんと追い詰めてしまったのだと今では反省しています。
それ以来、彼からバラを貰ったことはありません。その一度だけです。それ以来、塾はやめさせて、習い事も絞るようにしました。その中で相撲が本人には合っていた。勉強に関しては、受験が近づいて来たら、もう一度やらせればいいかなと思っていました。
一哉:あれもこれもってやったら何事も身につきません。私としては、頭は良くなくちゃいかんが、学歴はなくてもいいと思っていた。私はバブル崩壊に際して、山一証券や拓銀の破たんも経験しました。いい大学に入って、一部上場の企業に入れば将来安泰なんて時代ではなくなったと肌で感じていたのです。
――相撲を始めたのはいつごろだったのでしょうか?
一哉:小学校3年の頃です。伊丹のわんぱく相撲に出て、「面白いなぁ」と思ったようです。その後は、尼崎の関西奄美相撲連盟という相撲道場で本格的に始めました。
――食事も大きく変わりましたか?
純子:最初は温かいご飯を食べさせようとジャーみたいなのを使っていたのですが、それでは量が少なくて、最終的にタッパ―にご飯を詰めて、玉子3、4個で玉子焼きを作って、お肉もいっぱい焼いて持っていかせました。
一哉:稽古の後に、近くの吉野家で特盛3杯とか、びっくりドンキーで450グラムのハンバーグを3枚に大ライス3皿とか、とにかく量を食べさせました。
――反抗期はありましたか?
純子:主人にはなかったと思いますが、私にはこっそりとありました。小4までは、私の言うことを聞いていたのですが、身体が大きくなるにつれて、だんだん聞かなくなってきて……。
力で勝てるようになったと分かったのでしょうね。それから言い合いになったりもしました。中学生の頃、ケガで1年間稽古が出来なくなった時期があって、その頃は、いつも主人が帰ってくる20時半ギリギリになってようやく帰ってくるような生活を送っていました。
一哉:あいつは中2のころ、腰を疲労骨折したんです。主治医から「稽古を止めて、体育の授業もすべて休ませてください」と言われました。手術もできず、自然治癒を待つほかないとの診断で、ずっとコルセットを巻いて暮らしていたのです。
その頃、尼崎や西宮の中学に殴り込みにいったりしていたようです。ウチの息子をリーダーにして、野球部やラグビー部の子とよく喧嘩をしに行っていました。本人も「このあたりの学校は、全部制覇した」と言っていました。
純子:本人もままならない日々が続いたようです。私が心配になって声を掛けると、「うるさい! ほっといてくれ!」と、壁をドンッなんて叩いたこともありました。あの頃は、壁に2個ぐらい穴が開いていましたね。
一哉:反抗される親も悪いと思います。それに喧嘩というか決闘ですよね。私は「絶対に年下と喧嘩したらいけない」、「女性は年上でも絶対に手をあげてはいけない」と強く言い聞かせていました。
――結構、大変だったのですね。
一哉:普通のオカンは「ハイハイ」ってかわして、まともにぶつからないでしょ。でも家内は息子と五分と五分で怒鳴りあいますからね、
純子:過干渉だったんですよね。けど、言うこときかないわりに頼ってくる。朝に「学校へ送ってくれ」とか。けど、それもまた嬉しいじゃないですか(笑)
一哉:私は送っていきませんでしたよ。バス停まで遠かったですから。「歩いて行けーっ」て言うと、「おかんやったら乗っけて行ってくれんのに」なんて、ブツブツ言っとりました。
純子:あの頃は、ずっとあの子が心配だったんです。実は1度、死にかけたことがあったんです。真夏の暑い日、帰り道の途中に熱中症で倒れてしまいました。運動はできるくせに、不思議と歩けない子なんです。
一哉:その日は、たまたま家にいて、救急隊員の方から電話で連絡がありました。「息子さんが倒れていて、県立病院に搬送しました」と。偶然通りかかった方が通報してくれたようです。もし誰も通りかからなかったら、あの時、死んでいたかもしれません。
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