「渋沢栄一」「北里柴三郎」新紙幣の顔は妾に札びらを切っていた
3千円余にて購い…
閑話休題。世は“文春砲”などと喧(かまびす)しいが、明治期にはとてつもないメディアがあったものである。
萬(よろず)朝報――明治25(1892)年に黒岩涙香(るいこう)が創刊した日刊新聞だ。
同紙には「弊風一斑 蓄妾の実例」なる連載があった。今風に言えば、“今日の不倫カップル”コーナーとでも言おうか。
きょうび、不倫を報じるメディアそのものに眉をひそめる向きもあるが、涙香が連載を始めた理由は、
〈憐(あわれ)む可(べ)きは我国婦人の境遇より甚だしきは莫(な)し。古来の習慣とはいえ今以(もっ)て男子の玩弄たるが如き地位に在り。(略)これ吾人がここに男女風俗問題としてこの記事を掲ぐるの止むを得ざる所以(ゆえん)なり〉(1992年社会思想社刊『弊風一斑 蓄妾の実例』より)
つまり、女性の地位向上を目的としたものだった。
俎上に並んだのは犬養毅、伊藤博文ら政治家、森鴎外、黒田清輝ら文化人、医師や軍人、僧侶ら多士済々で、その数510例に及ぶ。
そしてそこには渋沢栄一と北里柴三郎の名もあった。
〈渋沢栄一は深川福住町四番地の自宅に大坂より連れ来りし田中久尾(ひさお)(二十八、九)という古き妾あり。日本橋浜町一丁目三番地の別宅には元(も)と吉原仲の町林家小亀こと鈴木かめ(二十四)なる妾を蓄(やしな)う〉
〈勲三等医学博士北里柴三郎が新橋の近江屋とん子こと小川かつ(二十二)を大金にて身請けしたるは慥(たし)か一昨年春頃のことなるが、(略)麻布二ノ橋東町二番地警視丹羽五郎の旧宅を三千円余にて購(あがな)い妾宅とし、(略)近頃は川添の庭園を手入れ中なり〉
「子孫と名乗るやつが急に訪ねてきたという話は聞いたことがあります」
とは前出の北里康二氏。
一方で、
「時代が違うし、妾やその子供を大事にしていたんだったら悪い事じゃないと思います」
と語るのは、渋沢栄一の遠戚で、フジテレビ系番組「テラスハウス」に出演したモデルの澁澤侑哉(21)だ。
「でも、もし僕が女性問題を起こしたら、“妾がいた渋沢栄一の子孫”と週刊誌に書かれますよね……気を付けます」
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