あだ名は「でんでん」 新歓コンパで池に落とされ…新天皇の微笑ましい学生時代

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“でんでん”

 学習院初等科のメンバーは、ほとんどが中等科、高等科へと持ち上がりで進む。

「その頃は御所に伺っていろいろお話しすることもありましたね」

 とは、初等科から大学院まで同級生だった乃万暢敏(のまのぶとし)氏。

「そうした時には、時々今上陛下や皇后陛下もお顔を見せられます。今上陛下は“私も仲間に入れてください”と輪に加わられることもありました。皇后陛下には、“ちょっと後ろを向いてごらんなさい”と、取り忘れていたスーツのクリーニング札を取っていただいたこともありました。この時は少し気恥しかったですが」

 高等科3年になり、進路を決める頃、乃万氏は殿下からこんなご相談を受けたという。

「“小さい頃から日本の歴史を教わり、考えて大変興味を持っているから、僕は史学科に行きたい”と。私もそこに進学したかったので“大学でもよろしくやりましょう”ということになりました」

 そんな経緯もあってか、進学直前、乃万氏は大学から呼び出しを受けたという。

「“殿下が環境に慣れるまではなるべく同じ授業をとってほしい”と。ですから常に傍にいた。デニムなどラフな格好の殿下に比べ、私は堅い服装でいましたから警護関係者と勘違いされることもありました。当時、殿下が一番お嫌いだったのは、特別扱いを受けること。一学生として振る舞いたい思いが強かったですね」

 大学生活の中心は学業だ。殿下と乃万氏が選んだのは、日本中世史の大家・安田元久教授のゼミだったが、ここは“スパルタ”で知られていた。

「鎌倉時代の書『吾妻鏡』を読み解いていくのです。学生は5~6人の班に分かれ毎週どこかの班が発表を担当する。学生はそれを講読し、当時の時代背景などについて報告するのですが、漢文で難しいし、先生に何を聞かれるのかわからない。答えられないと、“駄目だよ、こういうところを落としちゃ”と叱られてしまうのです。どの班も発表の担当週の2週間前には模擬練習をしていました」

 安田教授は学究的な姿勢で知られ、後に学習院大学の学長に。殿下といえども手加減はしなかった。

「先生が“殿下、ここはどういう意味ですか”“ここはどうですか”“ここは”とどんどん聞いていく。間違った答えをすると、“それは違いますね”と言って、時には“誰か教えてあげられないの”とまで言う。滅多にありませんでしたが、殿下が“申し訳ありません”とおっしゃることも。もちろんしょんぼりするわけではなく、一生懸命勉学に励まれていました」

 こうした指導もあって、殿下の研究は仲間内でも評価が高かったというのだ。テーマは水運。中世の瀬戸内海の水上交通を卒論とされた。

「非常に珍しいテーマだったと思います。ゼミでは他に誰もいなかった」

 と言うのは、冒頭に登場した竹内さん。彼女は音楽部のみならず、安田ゼミでも後輩に当たる。

「今では殿下はそれにとどまらず、研究対象を広げて『水』そのものについて研究されていますよね。『水』は今、世界的なテーマとなっています。先見の明がおありだったんだな、と思います」

 勉学同様、力を注がれたのが音楽部での活動だ。

 竹内さんが続ける。

「殿下は小さい頃からヴァイオリンを習われていたのですが、大学ではヴィオラの人数が足らなかったので転向されたみたいですね。“池落ち”のエピソードからもわかるように、部では殿下を特別扱いしてはいませんでした。先輩の中には、殿下だから“でんでん”と呼んでいる人もいたくらいです」

 部が終って帰る途中には、一緒に食事に行くこともあったという。

「部の仲間と休日、御所に伺ってテニスをし、横のクラブハウスでカラオケを歌うことも。殿下は柏原芳恵さんの大ファンで、グッズ鉛筆などを使われていたほど。私も殿下のリクエストで柏原さんの曲を歌ったことがありました。ご本人は佳山明生さんの『氷雨』などを歌われていましたね」

(2)へつづく

週刊新潮 2019年5月2・9日号掲載

特集「コンパで池に落とされた! 『雅子さんと婚約』スクープに絶句! ご学友が語る『新天皇』知られざる素顔」より

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