「桜田淳子」統一教会・合同結婚式参加で世間は仰天 キーパーソンは姉【平成の怪事件簿】
「姉と私は違う」
淳子が大変貌を遂げた、昭和48年が暮れて迎えた正月、桜田家に「教会から除名された」という恭子がふらりと戻ってきた。その彼女を両親が、淳子の世話係として東京に送り出したことが、統一教会を憎んだ少女の一生をも変えることになる。前出「サンデー毎日」の取材に母ワカがこたえ、苦しい胸のうちを明かしていた。
「実は、あのころも恭子は統一教会に入り浸っていたんです。私らが何を言っても聞かなかった。それで、教会の仲間がたくさんいる秋田よりは、いっそ東京に出したほうがいいのではないかということで淳子につけて行かせたんです」
当初、姉の事情を知る事務所の社長らに毅然と「姉と私は違う」と語った淳子は、この世界に不似合いなほどの潔癖性で通っていた。ライバルでありよき友であった山口百恵は自伝『蒼い時』で淳子の性分を、「彼女ほど何に対しても素直で、真剣な女性を私は知らない。(中略)それは彼女の最大のよさであると同時に、自分自身が苦しくなってしまう一番の原因であるようにも思う」
と暗示的に語っている。
「桜田淳子は“創られたアイドル歌手”の第1号です。いわばアイドル歌手の“創り方”というマニュアルが初めて彼女のときに完成したんです」(「週刊現代」平成4年8月8日号)と言ったのは、デビュー当時、ビクターレコードの担当ディレクターであった谷田郷士だ。
そうやって売り出された当時のアイドルにとって、商品イメージの保持は必須の課題であった。理想の型を崩せない本来の性格に加えて責任感の強い彼女が、恋愛に対し極端に慎重であったという関係者の証言は数多い。だからといって彼女が、人気タレントの宿命である、スキャンダル報道から逃れられたわけではなかった。
デビュー4年目の昭和51年には、淳子や山口百恵、野口五郎、森進一らのセックス・スキャンダルを実名報道した「噂の真相」誌を、タレント側が名誉段損で訴える事件があった。入信の1年前のことである。いわゆる「スター交歓図裁判」で、真っ先に証言台に立ったのが18歳の淳子だった。裁判を取材した芸能レポーターの須藤甚一郎の目には、はっきり淳子の動揺がみてとれた。
「(前略)山口百恵がマスコミに上手に対応したのとは対照的に、彼女は一種の興奮状態でね、世なれしていないところがあったね」(「週刊現代」平成4年8月8日号)
このとき、彼女はもっとも身近にあった「統一教会」という杖を手にしたのかもしれなかった。
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