60年前、英国は天皇陛下の御成婚をどう見ていたか 機密文書に残る秘話

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「シャイかつ内気」

 摂政の皇太子はまだ22歳で、国内を掌握する力は未確認だ。その上、妃を選ぶ際の混乱、いわゆる「宮中某重大事件」も英国の懸念を高めていた。
 
 これは1921年、元老の山県有朋が、妃に内定した良子女王の母方、島津家に色覚異常があるとして婚約破棄を迫った事件だ。
 
 他の元老の西園寺公望、原敬首相は山県を支持したが、大正天皇の皇后や島津家が反山県で結集した。この裏では長州出身の山県が、薩摩の島津家の血が皇室に入るのを嫌ったとの観測も流れ、政界を巻き込む騒ぎとなった。
 
 結局、皇太子本人が良子女王との結婚を強く望み、右翼の頭山満らも反山県に回り、ついに婚約破棄の企ては潰れたのだった。
 
 皇太子の婚約一つで混乱するほど、国内が不安定なのを英国は察知した。
 
 結婚4カ月後の5月31日、宮中の「豊明殿」で皇太子の結婚披露宴が開かれた。政府要人や皇族に加え、エリオットら在京外交団も招待されていた。
 
 披露宴でエリオットが、注意深く周りを観察すると、奥から皇太子夫妻が宮内大臣らと入ってきた。メンデルスゾーンの「結婚行進曲」が流れる中、一行は着席した。

 この時、「披露宴を威圧していたのは皇后だった。彼女の息子や義理の娘はシャイかつ内気で、まるで隠れようとしているかに見えた」(1924年6月6日、エリオット大使からマクドナルド首相への報告書)
 
 病弱な天皇と新婚の皇太子を抱え、宮中を仕切っていたのは貞明皇后だという。
 
 彼女の存在は13年後、ロバート・クレーギー大使のファイルにも登場する。盧溝橋事件直後に着任した彼は、直ちに昭和天皇や貞明皇太后に謁見したが、その時、驚いたのは皇太后の存在感だった。
 
 彼女は内外の情報にきわめて精通していたのだ。在京外交団をはじめ、英国の政治情勢にも強い関心を持ち、静かに余生を送る未亡人の印象ではなかった。
 
「貞明皇太后は卓越した知性と強烈な個性を備えた女性である。皇太子時代の(昭和)天皇が訪英できたのも、彼女の強い主張によるものだった」(1937年10月23日、クレーギーからアンソニー・イーデン外務大臣への報告書)
 
 翌年、英国外務省に出された報告書には、しばしば皇太后が宮中で政治的助言を行い、昭和天皇が嫌がっていると記述された。皇族の人間関係も重大な関心事だったようだ。
 
 ここまで見たように、ロンドン郊外に眠る機密ファイルは、日本人が生きた時代を鮮やかに照らし出してくれる。
 
“美智子妃ブーム”に沸いたご成婚から60年、その間わが国は、高度成長からバブル、その崩壊を経てきた。
 
 1993年6月9日には現皇太子の婚礼が行われ、相手は、エリート外交官から皇室入りした雅子妃である。二人は皇居から東宮仮御所までオープンカーでパレードし、沿道には19万人が詰めかけた。
 
 将来の天皇、皇后である二人を英国はどう見ていたのか。今後、日本の天皇制はどう変貌していくのか、今現在も、情報活動が深く静かに進んでいるはずだ。そのファイルが機密解除されるのは数十年後である。(文中一部敬称略)

徳本栄一郎(とくもと・えいいちろう)
英国ロイター通信特派員を経て、ジャーナリストとして活躍。国際政治・経済を主なテーマに取材活動を続けている。ノンフィクションの著書に『角栄失脚 歪められた真実』(光文社)、『1945 日本占領』(新潮社)、小説に『臨界』(新潮社)等がある。

週刊新潮 2009年4月16日号掲載

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