60年前、英国は天皇陛下の御成婚をどう見ていたか 機密文書に残る秘話

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 今から60年前の“ミッチーブーム”に沸く日本、さらにその45年前の昭和天皇の婚礼。同じ立憲君主国の英国は、両陛下(ともに当時は皇太子)の御成婚の“意味”を強かに見つめていた――。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、機密ファイルに刻まれた秘話を繙く。(「週刊新潮」2009年4月16日号掲載の記事を加筆修正)

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 国中が焦土と化した終戦から、今年で74年目を迎える。その間、日本は復興から高度成長、経済大国の道を走ってきた。
 
 この時代を生きた多くの日本人にとり、忘れられない出来事が、半世紀以上前の皇太子ご成婚だろう。それは、焼け跡から出発した戦後史のハイライトだった。
 
 1959年(昭和34年)4月10日、晴れ上がった青空の下、皇居から華麗な儀装馬車が現れた。車上には燕尾服の皇太子、横にはローブ・デ・コルテの礼装にティアラを冠した美智子妃の姿があった。
 
 皇室が史上初めて、「平民」出身の女性を妃に迎えたのだ。皇居から東宮仮御所までのパレードは53万人が集まり、歓呼と日の丸で祝福した。国内は高度経済成長を迎え、時代を象徴する若い二人の旅立ちだった。
 
 かつて私は『英国機密ファイルの昭和天皇』を上梓した時、英国公文書館の皇室ファイルを集めたことがある。
 
 ロンドン郊外の公文書館には、幕末から現代に至る膨大な日本関連ファイルが眠っている。明治、大正、昭和を通じ、駐日英国大使館などが本国に送った文書だ。
 
 明治維新以来、同じ立憲君主国として、英国は日本を綿密に観察してきた。そして、この皇太子ご成婚が将来の皇室、世論にどんな影響を与えるのか。60年前の皇室ファイルは、戦後の一大イベントを彼らがどう見ていたか、如実に物語ってくれる――。
 
 ご成婚から約2週間後、1959年4月23日、皇居沿いの英国大使館からロンドンに1通の報告書が送られた。
 
 題名は「皇太子明仁と正田美智子嬢の結婚」、冒頭に「CONFIDENTIAL」(機密)とある文書の作成者はオスカー・モーランド大使だ。ケンブリッジ大学を卒業して、外交官の道を歩んだモーランドは、戦前の駐日大使館に勤務し、真珠湾攻撃後、半年以上抑留されたこともある。
 
 吉田茂首相の娘麻生和子氏(麻生太郎副総理の母)をはじめ、多くの友人を持つ知日派で、戦後は駐インドネシア大使も務め、この直前、東京に着任したばかりだった。
 
 報告書の宛先はセルウィン・ロイド外務大臣、当時のハロルド・マクミラン内閣の一員だ。表に「For The Queen」とタイプされ、エリザベス女王にも回覧されたと分かる。
 
 文面はまず、4月10日の皇居内での婚礼を紹介している。挙式が行われた賢所近くには、美智子妃の両親正田英三郎夫妻や岸信介総理らが参列した。

「婚礼は伝統に則り皇居で行われたが、儀式形式が一部簡素化されたと思う。約千人のゲストが招かれ、全員が日本人であった。唯一の例外は、1946年から1950年まで皇太子の家庭教師を務めたエリザベス・バイニング夫人だった」

「前日の雨に拘らず、幸い天気は完璧で、タイミングも配慮されていた。車列を微かに妨害したのは、19歳の若者が皇太子夫妻に投石する出来事だった。石は命中せず、彼は馬車に飛び上がろうとしたが、即座に逮捕された」

 文面からは当日の祝賀ムードがはっきりと伝わる。だが、モーランドが最も注目したのは、ご成婚の国内への影響だった。

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