「いだてん」よりもドラマチック? オリンピック復活までのプレゼン物語

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オリンピックはプレゼンの産物

 視聴率の低迷、出演俳優の逮捕、死去とネガティヴな話題がクローズアップされがちなNHK大河ドラマ「いだてん」。ただし、これから東京オリンピックという高齢の視聴者には馴染みのあるエピソードになっていくので、局面を打開することもありえるだろう。物語の後半は、東京五輪の招致活動に携わった人物が主人公となっていく。

 オリンピック開催にあたっては、このような招致活動が重要な役割を果たすことは、よく知られている。2020年の東京招致では、皇族まで動員した日本のプレゼンテーションが奏功したという見方は強かった。今では懐かしくもあるが、一時はプレゼンで滝川クリステルが発した「オ・モ・テ・ナ・シ」が流行語にもなった。

 しかし、意外と知られていないのは、そもそも近代オリンピックの開催そのものも、プレゼンの産物だった、ということだ。

 近代オリンピックの父がフランスのクーベルタン男爵だということまでは知られているが、その実現には男爵のプレゼン力が大きく関係しているのだ。実はクーベルタンは、1度はプレゼンに失敗し、2度目のプレゼンでオリンピックを実現している。そのサクセスストーリーは実にドラマチックだ。

歴史を動かしたプレゼン』(林 寧彦・著)をもとに、そのドラマをご紹介しよう(以下、引用は同書より)

スポーツは暴力だ

 話の前提として、まず「近代オリンピック」について少し説明をしておこう。もともとオリンピックは古代ギリシャで行われていた行事である。開催時期は紀元前776年から紀元後393年までの1168年間。

「最高神ゼウスをはじめとする神々に捧げる4年に1度の祭典で、293回開催された。都市国家(ポリス)と支配地域の男子市民が参加して、陸上、レスリング、五種競技などを行なった。開催日は当初1日だけだったが、競技が増えるのにともなって5日間になった」

 クーベルタンは1863年、フランスの貴族の家に生まれた。当然、この時にはオリンピックはすでに存在していない。最後の開催から1500年近く経っていたのだ。

 そんな時代になぜオリンピックなどというものに興味を持ったか。それには当時のフランスの状況が関係している。クーベルタンの若い頃、フランスはドイツとの戦争に敗れ、国全体が自信喪失しているような時代だった。

 そして当時のフランスの教育関係者は、イギリスの教育に学ぼうと考えた。その動きの中にいる一人だったクーベルタンは、イギリスに渡り、現地のパブリックスクールを視察する。そこで彼は、イギリスではスポーツが教育に取り入れられていることを知る。

「学校でスポーツがあるのって当たり前では?」

 現代人ならそう感じるのが当然なのだが、実は当時「スポーツ」という言葉には「見せ物」のイメージが強かった。代表的なものは素手で殴り合うボクシングで、それ以外には女性同士の格闘もあったという。

「暴力や性的な欲望を、形を変えて満たしてくれる」のが、当時の「スポーツ」だったのだ。

「そんな『スポーツ』の中に教育的な要素を発見したのが、パブリック・スクールの校長たちだった。イギリスでは、産業革命で成り上がった新興のブルジョワがパブリック・スクールに子弟を送り込んだ。上流階級とブルジョワ階級が出会うことで、『ジェントルマン+競争』の倫理が生まれた。そうした時代の要請を読み取り、生徒の人格形成に役立たせるため、『スポーツ』をアレンジした『近代スポーツ』が生まれた」

 これが現在の我々がイメージする「スポーツ」の原型だ。そして、クーベルタンは、この「近代スポーツ」を普及させねばと考え、母国に「フランス・スポーツ競技委員会連盟」を設立し、さらにスポーツ月刊誌も発行するなど普及につとめた。が、フランスではなかなか盛り上がらない。

 それでもめげないクーベルタンは、20代後半になって「オリンピックの復活」というアイディアを思いつく。当時、知識人のあいだで古代ギリシャブームが起きていたことも背景にはあるようだ。

「フランスの教育改革を目指して、スポーツの普及に取り組んでいたクーベルタンに、古代オリンピックは大きな啓示を与えた。名誉だけを求めて競技を行なうアスリートたち、高い位置で肉体と精神のバランスがとれていた古代ギリシャ人、開催中の休戦協定……。自分の教育改革が目指すゴールが、すでに古代ギリシャで実現されていたのだ」

スベりまくったプレゼン

 教育のみならず世界平和にも貢献できるスポーツイベント、古代ギリシャの祭典をよみがえらせる。このアイディアにクーベルタンはとりつかれる。

 そして1892年、彼は会長をつとめる「フランス競技スポーツ協会連合」の「5周年記念を祝う」式典で、第1回目の「オリンピック復活プレゼン」に挑んだ。ちなみに本当は2周年だったが、箔をつけるために「5周年」に水増しした。開催場所は名門ソルボンヌ大学の大講堂。大統領も出席する中、クーベルタンは熱弁をふるった。

「選手たちを海外に送り出しましょう。選手の『自由貿易』が導入されれば、平和実現のための大きな新しい支柱ができあがるのです」

 そしてこう締めくくった。

「皆様の僕(しもべ)である私に、今後とも手をさしのべていただき、それを頼りに行ないたい事業があります。現代社会に適合した形で、この壮大で有益な事業を継続させ、完成させることを切望しています。その事業とは……、オリンピック大会の復活であります」

 これで大統領ら有力者が乗り気になれば実現に進むはず。

 実に力の入ったプレゼンだったが、結果としては大失敗だった。

「大半の聴衆は、クーベルタンが『オリンピック』を比喩として使ったのだと受け取っていた」

 要するに、古代のオリンピックのように選手の国際交流を行なおう、という程度の話であって、国際的なビッグイベントを開くなどと思われなかった、というのがクーベルタン自身による敗因の分析である。しかし、これでクーベルタンはくじけなかったのは言うまでもない(続く)

(※参考資料『オリンピックと近代――評伝クーベルタン』〔ジョン・J・マカルーン著 柴田元幸/菅原克也訳〕)

デイリー新潮編集部

2019年4月28日掲載

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