「サッカー専門誌」の平成史 「サッカーダイジェスト」元編集長が明かす“栄枯盛衰物語”

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日韓共催W杯で専門誌は“頂点”へ

 そして平成5(93)年5月15日、華々しくJリーグがスタートした。サッカー専門3誌はJリーグの試合結果を載せるだけで売れた。オフト率いる日本代表も同年10月、アフロアジア選手権で初優勝を果たす。平成になってサッカーは初めて表舞台に立った。まさに新たな時代の幕開けでもあった。

 すでにオフト・ジャパンは、平成5年4月に行われた94年アメリカW杯のアジア1次予選をオフト・ジャパンは楽々とクリアしていた。

 初めてのW杯出場へ期待のかかる10月、またも動いたのは「ストライカー」で、カタール・ドーハでの最終予選を前に週刊化に踏み切るという情報が出版界に流れた。当然ながら「マガジン」も「ダイジェスト」も追随せざるを得ない。

 しかし、「ストライカー」の発行元である学習研究社、「マガジン」の発行元であるベースボール・マガジン社はそれぞれ「週刊パーゴルフ」、「週刊ベースボール」という週刊誌を出版している実績があった。

 それに比べ「ダイジェスト」の発行元である日本スポーツ企画出版社は月刊誌しか発行していない。このため取り次ぎ大手の日販(日本出版販売株式会社)が、週刊誌コードの発行に難色を示した。

 週刊誌のコードを取得しないと発行することはできない。そこで救いの手を差しのべたのが印刷会社大手の大日本印刷だった。同社の保証を受けて平成4(1992)年10月、「マガジン」と「ダイジェスト」は週刊化に踏み切る。意外だったのは、先陣を切ると思われた「ストライカー」が週刊化を見送ったことだった。ただ、それにしてもJRや地下鉄の売店でサッカー専門誌2誌が並ぶという光景は、昭和の時代には想像すらできない出来事だった。

 平成5(1993)年10月、アメリカW杯のアジア最終予選。日本代表はイラクとの最終戦を、ロスタイムの失点により2-2のドローで終わる。

 三浦と中山雅史のゴールで2-1とリードして、あとは試合終了のホイッスルを待つばかりだったが、90分にCKからオムラム・サルマンに痛恨の一撃を食らう。

 すでに試合を終えていた韓国はW杯出場を諦めていたものの、日本はラスト1プレーでつかみかけていたアメリカW杯のチケットを韓国に譲らなければならなかった。試合がカタールの首都、ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたため、後に“ドーハの悲劇”と語り継がれる一戦だった。

 それでもサッカー人気が下火にならなかったのは、同年にスタートしたJリーグ人気のおかげだった。しかし爆発的な人気を誇ったJリーグも、平成6(94)年を迎えると観客離れが顕著になった。この頃から週刊誌の売り上げは、書店よりコンビニの比重が増えていた。コンビニはPOS(販売時点情報管理)が書店よりも早いため、実売予想がすぐに出る。毎号、「マガジン」との競争を強いられながら悪戦苦闘の日々だった。

 そんなサッカー界に朗報がもたらされたのが、平成7年3月、U-23日本代表がアジア最終予選をクリア。平成8年開催のアトランタ五輪に28年ぶりに出場を果たしたことだった。GK川口能活、FW中田英寿、MF前園真聖らの活躍で、五輪の初戦は優勝候補のブラジルを1-0で破る。“マイアミの奇跡”と呼ばれたが、日本は2勝1敗と健闘したものの、得失点差でグループリーグ敗退を余儀なくされる。

 グループリーグで日本と対戦したナイジェリアが初優勝し、ブラジルが銅メダルという結果からも、日本は不運だったと言えるだろう。

 ただ、川口や中田らは平成9(1997)年、日本を初のW杯へと導く。マレーシア・ジョホールバルで行われたイランとの第3代表プレーオフで、FW岡野雅行のVゴールにより3-2でイランを下し、日本は悲願のフランスW杯への出場を果たした。

 日本のW杯初出場を特集した「ダイジェスト」の増刊号は15万部ほど刷ったが完売。そこで急きょ3万部を増刷した。サッカー専門誌としては考えられない部数であり、その後も切り口を変えて2冊の増刊号を発行したが、こちらも完売した。まさに“W杯景気”と言える社会現象で、それは翌年のフランスW杯で観戦のためフランスまで行ったものの、肝心の日本戦のチケットが入手できないという異常事態も起こった。

 話は前後するが、アトランタ五輪まではフィルムで撮影し、ネガフィルムならカメラマンがホテルで現像、ポジフィルムなら現像所に出して処理してもらっていた。しかしアトランタ五輪ではスポーツ専門誌「Number」(文藝春秋)がそれまでの常識では考えられない速さで表紙を飾った。

 調べてみると、凸版印刷が現地の子会社から電送で東京の本社に送り、印刷したことがわかった。このため週刊誌は大日本印刷、増刊号は凸版印刷という態勢でフランスW杯に臨んだ。決勝は地元フランス対ブラジルの好カード。デジタルカメラが普及する前の、最後のW杯でもあった。

 凸版印刷が用意した現像所はパリ市内にある。決勝戦の会場であるサン=ドニから現像所まで、クルマならすぐだが、もしもフランスが初優勝したら、シャンゼリゼ大通りは群衆で埋まり、クルマもバイクも走れないだろうと判断。フィルムの運搬手段は自転車と決め、セレモニー終了後は分刻みで写真を伝送する態勢を取った。原稿は平成3(91)年のアジアカップ以降、niftyのパソコン・ワープロ通信で送るようになっていた。

 サッカー界に限らず、通信手段が格段に進歩したのが平成10(98)年以降ではないだろうか。写真はフィルムからデジタルへ、原稿もワープロからパソコン通信へと移行する過渡期だった。日本が初参加した平成11年にパラグアイで開催されたコパ・アメリカでは、電話回線が弱いため、大手新聞社は湾岸戦争で話題になったインマルサット(通信衛星)を使用して原稿を送っていた。

 そして平成14(2002)年、日本で開催された日韓共催のW杯で日本は初のベスト16に進出。日本代表の活躍と同時に、イングランドのデイビッド・ベッカムが注目を集め、彼のヘアスタイルも流行した。当時。私はすでに「ダイジェスト」を離れ、別の出版社に勤務していたが、急きょ出版したベッカムの写真集は部数を抑えたものの完売。さらに香港の出版社から「版権を買いたい」というオファーも届いた。

 ただ、サッカー人気も長くは続かず、平成18(06)年をピークに下降線を辿る。直接の原因はドイツW杯でのジーコ・ジャパンの惨敗だったが、雑誌にとってはインターネットの普及が致命傷となり、スマートフォンがとどめを刺した。

 日本代表とU―23日本代表は相変わらずW杯と五輪の出場権を獲得し、JクラブもJ1からJ3までチーム数は増加したが、反比例して雑誌の売り上げは下降線をたどる。読者は速報性があり、なおかつ無料で手に入るネット情報を活用するのは当然のことだろう。このためサッカー専門誌は最初に駅の売店から姿を消すと、コンビニでの販売も終了した。

 平成25(2013)年に「マガジン」が週刊誌から月刊誌に戻すと、翌平成26年には「ダイジェスト」も月2回刊へとリニューアルする。ようやく両誌ともWEBの重要性に気づいてシフトしていった。

 そして平成最後となる31(2019)年3月、それまで隔月刊でテクニックを紹介する本に特化してDVDを付録につけるなど健闘してきた「ストライカー」が休刊を決定した。やがて訪れる令和の時代を迎えても、「ダイジェスト」と「マガジン」には茨の道が続くかもしれない。

「ワールドサッカーキング」、「Jリーグサッカーキング」、「サッカーゲームキング」の3誌を統合して誕生した、最後発の雑誌「SOCCER KING」(発行:フロムワン/発売:朝日新聞出版社)のように、いっそのこと紙媒体は広告ツールと割り切って発行しつつ、メインはWEBや動画の発信で広告収入を得るというのが時代の流れかもしれない。

 平成は、日本サッカーがプロ化に踏み切り飛躍的に進歩した31年間であり、サッカー専門誌にとっては、これ以上ないくらい幸福な栄華を極めつつ、衰退を余儀なくされた時代だったのではないだろうか。

六川亨(ろくかわ・とおる)
1957年、東京都生まれ。法政大学卒。「サッカーダイジェスト」の記者・編集長としてW杯、EURO、南米選手権などを取材。その後「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。

週刊新潮WEB取材班

2019年4月28日掲載

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