「サッカー専門誌」の平成史 「サッカーダイジェスト」元編集長が明かす“栄枯盛衰物語”
皇居に低頭して平成がスタート
昭和64(1989)年1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御した。時代は今上天皇に移り、元号は平成に改められた。当時の日本サッカーは、まさに暗黒の時代だった(元「週刊サッカーダイジェスト」編集長・六川亨)
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日本代表は前年の昭和63年、あと一歩に迫ったソウル五輪アジア最終予選で中国に敗れ、20年ぶりの五輪出場という夢が断たれた。海外サッカーをメインにした月刊誌「イレブン」(日本スポーツ出版社)が廃刊したのも、同じ昭和63年のことだった。
昭和天皇の崩御により、1月7日に元号は平成と改元。同じ日に予定されていた第67回全国高校サッカー選手権の準決勝と、翌8日の決勝は、それぞれ2日延期された。サッカー雑誌の老舗である「サッカーマガジン(以下、マガジン)」の発行元であるベースボールマガジン社は、初代社長の池田恒雄氏の命により全社員が午前10時、皇居に向かい低頭して弔慰を表した。
平成元(1989)年の6月には、翌年にイタリアで開催されるW杯のアジア1次予選で日本はあっけなく敗退。4年前のメキシコW杯予選ではアジア最終予選まで勝ち進んでいただけに、サッカーファンの失望は大きかった。
ただ、暗い話題ばかりではなかった。高校選手権では清水商業が2度目の全国制覇を達成したが、名波浩(現ジュビロ磐田監督)、藤田俊哉(現JFA技術委員)ら後に日本代表として活躍する選手が台頭した。
平成元年は、日本サッカーにとって暁闇(ぎょうあん=夜明け前)と言うこともできる。
当時は閑古鳥が鳴いていた日本サッカーリーグ(JSL)だったが、平成元年6月、プロ化を模索していたJSLは事務局内の「第2次活性化委員会」を発展的に解散。川淵三郎を委員長とする「プロリーグ準備検討委員会」を日本サッカー協会(JFA)内に発足し、正式に「プロ」の文言を使い、プロ化の準備に着手したのだった。
このプロ化の動きに呼応するように、平成2(90)年にはブラジルから三浦知良が帰国。日本国籍を取得したラモス瑠偉と2人が、同年9月に中国で開催されたアジア大会の日本代表に加わった。
6月に開催されたイタリアW杯予選の惨敗でファンから「辞めろ」コールの起こった横山謙三監督だったが、翌平成3年のキリンカップでは初優勝を果たす。
サッカー専門誌としては、転換期ともなった平成のスタートだった。先駆者である「マガジン」、前述した「イレブン」、昭和53(1978)年創刊の「サッカーダイジェスト(以下、ダイジェスト)」(日本スポーツ企画出版社)、昭和61(86)年創刊の「ストライカー」(学習研究社:現学研ホールディングス)と4誌が乱立していた。前述したように昭和63年に「イレブン」が廃刊になり、専門誌の先細りが予測された平成元年、日本サッカーのプロ化の機運が高まったからだ。
そしてサッカー専門誌としては3番目となる「ダイジェスト」は、「イレブン」の廃刊により新たな読者を獲得して急成長を遂げる。
創刊当時は、4人の編集部員でスタートした「ダイジェスト」だったが、編集のプロではあったもののサッカーはまったくの素人だった。そのためサッカー用語の使い方も怪しい。創刊号を見たJFAのある職員は「カストリ雑誌だな」と揶揄した。カストリ雑誌とは、第二次世界大戦後に密造された粗悪な酒を「カストリ」と言い、3合飲んだら酔いつぶれることから、「3号」で休廃刊される雑誌のことを指した。
しかし「ダイジェスト」は3号で潰れなかった。当時は“王道のマガジン”、“海外のイレブン”というイメージが読者には強かった。それに対して「ダイジェスト」は“女、子供のダイジェスト”と揶揄された。全日本少年サッカー大会や全国高校選手権など育成年代をメインに取り上げたからだ。
その狙いとして「子供が雑誌に載れば親や親戚らが買う。そして子供の読者がつけば、その子は青年になっても『ダイジェスト』を読み続けるリピーターになるだろう」という、根拠のない理由からでもあった。
入社したての新米に、メインである高校や少年団の取材は回ってこなかった。担当したのは人気のないJSLと日本代表。JSLを取材しても、誌面に取り上げられるのは数ページだし、日本代表にいたっては、いつも負けた原稿を繰り返し書く昭和末期の日本サッカーだった。
そんな風向きが変わったのは、昭和63(88)年のことだった。「イレブン」の廃刊により「ダイジェスト」は、海外サッカーの情報をメインターゲットにした。
それまで専門誌の海外情報はというと英字新聞や、「キッカー」(ドイツ)など海外のサッカーメディアを翻訳して社内で原稿を書いたり、共同通信や時事通信の記者に、国内では配信しないサッカーの情報を書いてもらったりしていた。
しかし、それだけでは読者に対して説得力に欠けるだろうという判断から、西ドイツ(当時)ならマーティン・ヘーゲレ、フランスならレミー・ラコンブといったヨーロッパでも著名な記者に原稿を依頼することにした。
原稿料に加えて翻訳料もかかるが、サッカーファンを含めて日本人は「外国人からどう見られているのか」を気にする国民性ではないか。褒められたらうれしいし、批判されても、それを受け入れるメンタリティーがある、そんな考えもあった。彼らとパイプのある日本人の翻訳家と出会えたのも僥倖だった。
さらに追い風として平成3(91)年、WOWOWがセリエAの試合を日本初のペイパービューながら放映を開始した。それまでは東京12チャンネル(現:テレビ東京)が放映していた「三菱ダイヤモンド・サッカー」が、海外の試合を見られる唯一の機会だった。しかしそれも終了し、サッカーファンの多くが海外サッカーに飢えていた。
ただし、海外サッカーへの関心の高まりは副産物に過ぎないだろう。むしろ大きかったのは平成4年に、日本代表監督に初の外国人となるハンス・オフトが就任し、「日本をW杯に連れて行く」と公言したことと、それに呼応してJリーグの創設が具体性を帯びたことだ。すでに前年、Jリーグに参加する10チームは決定していたが、そのユニフォームが発表されるなど翌年スタートのプロリーグへの機運が高まっていた。
ハンス・オフト率いる日本代表は平成4年8月に北京で開催されたダイナスティーカップで初優勝を果たす。さらに10月、広島で開催されたAFCアジアカップでの躍進も期待された。このアジアカップ、アジアで最も権威のある大会ながら、それまで日本は参加に消極的だった。日程が国内リーグのJSLと重なること、そして「出ても勝てない大会」として、前回大会のアジア予選には大学生選抜を送るのが現状だった。
この広島大会にしても、2年後のアジア競技大会の“予行演習”として広島が招致に手を上げたのだった。ところが、ダイナスティーカップの優勝――アジアでは62年ぶりのタイトルにファンの期待は盛り上がった。
それまで「マガジン」、「ダイジェスト」、「ストライカー」の専門3誌は月刊誌だったが、アジアカップの前に「ストライカー」が隔週刊に変更するという情報が流れた。当然、「マガジン」も「ダイジェスト」も追随せざるをえない。それまで細々と月刊誌で命脈をつないできた専門誌が、月2回刊へと“昇格”したのだった。
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