小出義雄氏が明かした「有森裕子」秘話 無名のランナーを五輪メダリストに育てるまで
女子マラソン界の名伯楽、小出義雄氏が24日肺炎のため亡くなった。数々のメダリストを育て上げた小出監督。バルセロナ五輪で、日本女子陸上界に64年ぶりのメダルをもたらした有森裕子も教え子の一人だ。生前、小出監督が語った有森裕子との秘話をお届けする。(※年齢、肩書き、データはすべて当時のものです)
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まず、28年前、有森と出会った頃の話を聞くと、
「彼女の走りは、褒めるところが全くなくて困ったよ。何しろチームで一番の鈍足でね。800メートルを走らせたら、本人は『自己最高です!』って言うんだけど、実は中学生よりもタイムが遅かったんです」
と、意外な話をする。
有森は1992年のバルセロナ五輪で銀メダル、次のアトランタ五輪でも銅メダルに輝いた日本女子マラソンの先駆者である。
だが、彼女がリクルート陸上部に入部した時、将来の五輪メダリストの片鱗は微塵もなかったという。小出氏が続ける。
「僕がリクルートの監督になったのは88年です。それまで23年間、高校教師をやっていた。最後にみた陸上男子チームが、全国高校駅伝大会で当時の高校最高記録を出して優勝。次は『五輪で日本人に金メダルを取らせたい』と思い、実業団に移ろうと思ったのね。それで高校陸上での実績を買ってくれたリクルートへ行くことにしたんです」
ちなみに、リクルート事件が発覚したのは88年6月のことだ。
「そうね、事件もあったし、周囲には反対する人もいたけど、そんなのは関係なかった。リクルートは『予算は青天井』と言うし、江副(浩正)会長もずいぶん僕を可愛がってくれたからね。25億円かけて、部員の寮も作ってくれました」
有森がリクルートの陸上部に入部したのは89年。
「入部したいって彼女から手紙が来たんだけど、最初は断ったんだよ。だって、日体大時代の有森はまったく無名だったからね。すると今度は合宿所まで押しかけてきた。最後は、日体大の先生から『駄目だったら教育係にしてください』という手紙を貰い、入部させることにしたんです」
確かに、日本体育大学時代の有森の成績はパッとしない。1年の時、関東学生陸上競技対校選手権大会の3000メートルで2位になったのが最高だ。有森自身、大学卒業後は教職をめざしていた。ところが、急遽出場した大会で思いがけず好タイムを出して優勝したことで自信をつけ、実業団に進路を変更したという。
「入部したての頃は、彼女が得意だったのは下り坂を走ること。あとは、学生時代に居酒屋でバイトをしていて、ビール瓶を運んでいたから筋力はあったかな。ある時、ためしに50キロ走らせたら、意外にも実績のあるランナーより速かった。それでマラソンをやらせることになったんです」
すると、有森は小出氏に、
「監督、オリンピックに行かせてください!」
と、訴えたというのだ。
何を言い出すのかと思った小出氏が、
「こんな成績でオリンピックに行きたいと言い出すなんて、お前、死ぬかもしれないぞ」
と言うと、有森は、
「オリンピックでゴールしたらグラウンドで死んでもいいです」
と、言ったという。
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