「ドクター・キリコ」の毒物宅配事件 犯人も青酸カリで命を絶った理由【平成の怪事件簿】
ECとは何か
東京にある私立大学の理工学部工業化学科に学んだ草壁は、卒業後に勤めた札幌に近い医薬品開発会社を、わずか1年3カ月ほどで退社していた。朝礼の場でボーナスヘの不満を口にし、自ら社を去ったという。以降は職を転々として、事件の3年ほど前から塾の非常勤講師におさまり、傍らインドやタイなどをひとりで旅して歩いた。
幾人かの証言をつなぐと、彼は、最初の会社をやめてから旅をはじめる数年の間に、鬱症状に悩まされるようになり、一度は自殺をはかったことがある。そして精神医療現場の、患者の人格を顧みない診療に失望し、自分なりの生きるよすがを模索するようになった。
親しかった数人に、彼は「EC」を携帯した旅のなかで、自分の自殺衝動が和らいでいったと語っている。つまり、いつでも死ねる選択肢を持つことで、開き直って生きる術を見つけたというのだ。
草壁が薬に関する豊富な知識を書き込んでいた自殺系サイトの一部常連の間では、彼が青酸カリの保持者であること、他者にそれを分けていることは周知のことだったらしい。たびたび草壁は、「カリの売人ウゼエ」「お薬自慢ウゼエ」といった中傷にさらされている。
ある日そこに、「美智子交合」という参加者が、草壁を擁護する書き込みを差し挟んだ。さきの練馬の主婦で、これをきっかけにふたりの交信がはじまり、かの「ドクター・キリコの診察室」が生まれていた。
この掲示板は、練馬の主婦が事件がおこる年の夏ごろに立ち上げたホームページ「安楽死狂会」のいちコンテンツで、草壁は薬に関するアドバイザーとして参加を求められたのだった。ハンドルネーム「ドクター・キリコ」も彼女の発案で、手塚治虫の『ブラック・ジャック』に登場し、末期患者に安楽死を施す医師からとっていた。
美智子交合の『わたしが死んでもいい理由』(太田出版)によれば、ロコミや相談を通じて青酸カリを求める相手に対し、草壁は次なる独自の物さしをあてていたという。
「私は無差別にそれをしている訳ではなく、私なりの基準を持っている、それは『鬱状態が酷く、長く通院・投薬治療をしてもなお、回復の兆しが見られない人』である」
彼女が、青酸カリの販売を求めたときは、こう書き送ってきた。
「売るのは違法だからできません。ただ、シアン化カリウムはあくまでも私の物という事で、美智子さんに保管の委託をするだけならばオッケーです」
自殺衝動にかられていた彼女は一度、カプセルを手にして冨士の樹海に向かっている。だが瀬戸際で思いとどまった。草壁に帰還の報告をすると、彼は、飛び上がらんばかりに声を弾ませたという。「生きてたんだ! 良かった、ああ、よかった(中略)アレはね、本当に不思議な『お守り』なんだ、これまで幾人かの人に渡していたけれど誰も飲んだりしていない、皆、お守りとして持っていてくれてるよ。(中略)お守りの品質は5年くらいしか保証できないけど、僕は、5年後に、美智子さんのお守りが無事に僕のところに戻ってくるのを待っているよ! そしたらまた、新しいお守りをあげるからさ、その時は委託料は受け取らない」(『わたしが死んでもいい理由』)
ただ、顔の見えない相談者に劇毒を託す治療法は、互いの信頼関係のみに依存するリスクの高い賭でもあった。その心許ない糸が切れる日がくるのを、彼は予期しただろうか。
臨床心理士の矢幡洋は、当事者の証言をもとに事件の全容を描いた『Dr.キリコの贈り物』(河出書房新社)で、草壁竜次が実践した「当事者相互の助け合い」の意義を認めつつ、あまりに純粋すぎる誠意の危うさを次のように指摘していた。
「彼にとっては、『ネット上での信頼性』という問題は存在せず『けっして使用しないでくれ』と伝えたからには、相手はその契約を守ってくれるものだ、とまるで疑っていなかったふしがある」
結局、7人目のEC保持者によって、「お守り」の封印はいともたやすく解かれてしまった。
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