トンデモ韓国人に軍艦島の元住民が激怒、日本への憎悪を煽る荒唐無稽な言動とは

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千人を虐殺?

 グ氏は、韓国で伝記『神仏山(シンプルサン)―パルチザン グ・ヨンチョル一代記―』(アン・ジェソン著 出版:サンジニ)が出版されている。彼の激烈な半生を描いた本で、前半に端島でのエピソードが綴られていた。

 これには、島に住んだことがあれば誰もが知るはずの地理情報が誤っていた。「熊本は、海をはさみ端島からはっきり見渡せる場所であった」とある。

「絶対見えない」(中村陽一氏)

「間違ったって見えないよ」(坪内光興氏)

 と元島民たちは口を揃えて反論した。もちろんどこから見ても、端島から熊本が見えることはない。

 また、中には記憶違いでは済まされない驚愕のエピソードも登場している。

「(朝鮮人たちは)動物の檻と変わりがない合宿所に集団で起居しながら、毎日迫りくる死の脅威にさらされていた」

「(終戦後)朝鮮人は、彼らが連絡船で夜逃げしたことを知った。(略)島に残ったのは朝鮮人と沖縄人だけだった。実に奇怪な状況であった。大人は皆、日本人が去ったその夜にとんでもないことがあったのだと疑ったが、よもや千人をも虐殺するなど、純朴な朝鮮人の想像をはるかに超えることだった。日本人が中国人だけを坑内に閉じ込めて入り口を爆破して皆殺しにしたのではないかと疑うようになった」

 まず、1945年8月の終戦前後に、端島において、千人の人間が虐殺されたなどという事実はない。外務省が終戦の翌年に作成した華人労務者調査報告書(三菱高島礦業所端島坑)には、島内で就労していた華人労務者全員(183名)を社船にて、佐世保で米軍に引渡した記録が遺っている。終戦を端島で迎えた元島民たちに読んでもらうと、全員が千人虐殺説に「絶対にあり得ない」と口を揃えて反論した。また、終戦前後、端島での騒動や混乱の記録はない。同じ島出身者なのに、なぜこのような荒唐無稽なエピソードがでてくるのだろうか。

 それ以外にもグ氏の演説や証言は、元島民にとって、首をかしげざるを得ないものばかりであった。

「朝、登校中に見た光景といえば、食料を得るために皿をひとつ持って列をなしていました。(略)その横には日本の軍人が棒を持って立っています。その前を頭も首もあげることもできず、皿だけを持ってわずかな食料を得ようと列をなしている様子を見て、あまりに凄惨だと思いました」(民主労総での演説)

 この証言に元島民の松本栄氏は、

「皿を持って、道路端で、お涙ちょうだい、おかずちょうだいって、こういうバカげたこと、さすがに三菱たるとこは、そういうことは許可せんですよ。見たことない。日本軍の兵士が、労務者の食事の監視をした事実もありません」

 と反論する。端島では、独身労務者の食事は寮の食堂で提供されており、道端で配膳することはなかった。

 グ氏はこうも語っている。

「登校途中の道端に労務者事務室があります。そこから来る日も来る日も悲鳴と叫び声が聞こえます。つま先立ちで窓から覗くと、(朝鮮の)青年たちを2~3名コンクリート塀の前にひざまずかせ棒で叩いているのです。『助けてくれ!』と叫んでいます」(民主労総での演説)

 これに対しても、「端島のどこで、そういうふうな状況、状態が発生しておったのかその場所を証明せよ、というふうに聞きます。逆にわしは端島で見たことないから」と松本氏は反論している。

「Hello tv NEWS」での「中ノ島で朝鮮人の死体を焼く煙が日に1、2回必ず立ち上った」という発言には、終戦の年の4月まで端島炭鉱の測量部署に勤めていた松本氏が、

「発生した事故の現場監督あたりが会議室に呼ばれて、事故の状況を報告せにゃいかん。それに基づいて、測量は、現場検証に行くわけです。こういうふうな状況でこの作業員が亡くなったということを、図面に描いて、しかもそれを文章化して、当時の鉱山監督局に変災(報告)書を書かにゃいかんのです。1日に一人も二人も死んだとなったら、私ども、それにかかっておらんばいかん。そういうことはまずありえん」

 と否定する。インタビューの終盤、

「真実は一つしかないんですよ。なぜこんないい加減な証言につきあわなければならないのか」

 と、松本氏の怒りがとうとう爆発した。

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