「AIを見くびっています」 『国家と教養』藤原正彦氏の「AI vs.人間」論

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 AIが人間の仕事の大半をこなせるようになる――そういう日が遠からず来るというのは、定説になりつつある。その良い面は人手不足の解消につながることだろうし、悪い面は職を奪われることだろう。そして後者の方を心配する人は少なくない。
 しかし、ベストセラー『国家の品格』の著者として知られる数学者の藤原正彦氏はこうした見方を一蹴する。3月31日に放送された「報道プライムサンデー」(フジテレビ系)で、藤原氏は次のような持論を述べた。

「人間の仕事をAIが奪うといった話は、もう随分前からありました。私は20年以上前、アメリカでAIの研究者とそのことについて議論したことがあります。
 その時から私の考えは変わっていません。AIは人間には取って代われない、ということです。
 たとえば技術が進歩したことで、AIが詩や短歌も作ることができます。それはそれなりのものができるのです。
 ただし、その中でどれがいいかを選ぶのは、AIには無理。人間でないとできない。なぜなら、こういうものを選ぶには、もののあわれや悲しみ、情緒が必要だからです。そして、そうした感情は、密接に『死』とかかわっている。『死』は人間にとって根源的な悲しみです。
 一方で、AIには本質的には死はない。だからAIに情緒は理解できない。
 AIの研究者は、AI万能論を言いますが、あれはおめでたい人。
私なんかはAIを見くびっています」

 何だか心強く感じられる一方で、いささか氏の考え方は楽観的にも見える。良くも悪くもAIが人間の労働のかなりの部分をすでに代替しているのが現実。この流れが止まることはなさそうだ。
 藤原氏も、無条件に人間がAIに勝てるなどといった楽観論を説いているわけではない。ネット社会を生き抜くには、人間の側にもそれに適した能力が必要だ、という。新著『国家と教養』では、次のように述べている。

「書物やネットにある情報量はほぼ無限です。(略)
 無限にある情報の中から、人間は取捨選択し自分の情報とします。ここで適切な選択のできない人は、真偽の明らかでない情報、偏った情報、真っ赤な嘘、正しいが取るに足らない情報、などばかりを拾いがちです。
 この世に溢れる情報の99.9999999999%は自らにとってゴミ情報です。例えば、イギリスのケンブリッジ郡グランチェスター村で14世紀に、粉屋の娘が近所の男とふしだらな関係を結んだこと。1987年12月26日に同地で開かれた樽レースで誰が優勝したか。これらは世界中のほぼすべての人にとって完全に無価値な情報です。この村に住む人々のうちのノーベル賞受賞者の割合は世界一高い、という情報も正しいながら価値は限りなく小さい。昭和34年の都立西高入試における受験番号1番(成績ではない)が私という事実も、どこかに存在する情報ですが、私以外の人間にとってはほぼ無価値です。
 誰しも、有限の人生において、無価値の情報に関わっているヒマはありません。自分にとって価値のある情報だけを選択したい、とすべての人々が思っています。それらがその人の判断力の基盤となるからです」(『国家と教養』)

 この判断力にはある種の「嗅覚」が必要で、それは教養とそこから生まれる見識が大きく働いている、というのが藤原氏の考えである。AIに怯えすぎる必要はないけれども、負けないためには教養を積むなど人間側の努力も必要だということだろうか。

デイリー新潮編集部

2019年4月8日掲載

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