「終活ライター」が父を亡くしてやっとわかったこと~息を引き取り、葬儀を終えるまで

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「旦木博雄さんのご家族の方ですか?」

 突然スマホに名古屋の市外局番「052」で始まる番号が表示された。電話に出た途端、相手が父のフルネームを口にしたことに面食らい、続く言葉に血の気が引いた。

 終活ライターとして約3年間、葬儀やお墓、仏壇や介護など、さまざまな情報を得、学んできたにもかかわらず、動揺する自分に驚いた。

  前編では、1月24日に父が倒れ、「保って1週間」と宣告されたため、急遽名古屋へ帰り、まだ父らしさの残る父に会えて安堵したのも束の間、容態が安定せず、母までが不安定になり、私自身が苦しくなっていくまでを振り返った。

 後編では、父が息を引き取り、葬儀を終えるまでを振り返る。

(前編はこちら https://www.dailyshincho.jp/article/2019/04020700/

 ***

回復と急変

「休んだら気持ちが楽になった。1日行かなくても、お父さんは何にも変わらなかったから」

 母は仕事を再開し、病院に行く回数も減らした。

 私はもう、父が良くなることはないと覚悟していた。母もそうだったのだと思う。

 2月19日。

 主治医から「転院先はリハビリ型病院でも良いです」という話があった。

 父は、ここ数日の間に、予想以上に回復していた。

 母は転院先に、最近できたばかりのリハビリ病院を選んだ。その病院は、父と母が結婚式を挙げた式場跡地に建てられた病院だった。

 そこで父がリハビリに励み、側で母が支える。私は運命を感じずにはいられなかった。

 2月26日。

 転院日が3月1日に決まった。

 今年の春は早く、暖かい日が続いていた。私の心も軽くなっていた。

 2月28日。

 川崎も名古屋も朝から冷たい雨が降っていた。それでも明日は父の転院日だと思うと心が弾んだ。

 11時半頃、仕事の昼休みに母が電話をかけてきた。

 転院の話を中心に、ひとしきり明るい話題で盛り上がった後、電話を切った。

 すると正午頃、また母から着信があった。「転院が延期になった」。「原因不明の高熱のため延期する」と病院から連絡があったという。母は、「転院した後だったら、また急性期病院に戻らなければならなくて大変だった。転院する前で良かった」と言い、仕事に戻った。

 それから数分後、再び母からの電話が鳴る。「なるべく早く来るように病院から電話があった」。母は仕事が終わる16時頃に、弟と病院に行く手はずを整えた。

 さらに13時過ぎ。「腸の血管が詰まり、壊死している。すぐに緊急手術が必要」と、主治医から電話で手術の同意を求められたという。しかし、緊急手術をしても、もう口から食べることはおろか、リハビリ病院へ転院することもできなくなる。つまり、「寝たきりになる」と告げられた。

 母は言った。「あんなに食べるのが好きだった人なのに、もう二度と食べられないって言われたし。それにずっと前からお父さんは、『寝たきりになってまで長生きしたくない』『父親より10年も長く生きられたから充分だ』って言ってたし。もう手術しなくてもいいよね?」

 私の父方の祖父は、同じく脳梗塞を起こし、58歳のときに亡くなっていた。

「うん、しなくていいよ」と私は答えた。「そうだよね。じゃあ、仕事終わったら病院行くから。また電話する」慌ただしく電話は切れた。

 私は崩れ落ちるように座り込んだ。静かに涙が流れた。

 16時少し前、「病院へ向かう」と母から連絡があった。

 そして17時過ぎ。結局父にはもう手術に耐えられるだけの体力がなく、主治医は「手術したとしても助からない。保って1週間でしょう」と告げた。

 母は、「あんたはいつ来るの?」と訊ねる。

 私は仕事、娘は学校がある。私がいなければ、夫が娘の面倒を見なければならない。もしまた1週間以上保ったらと思うと、すぐには動けなかった。1週間ずっと父についていることはできない。かといって、私が来るのを父が待つことなどできるわけがない。

 私は覚悟を決めた。「亡くなってから行くよ」。

 20時半過ぎ。高熱による苦しそうな状態はまだ続いているが、母と弟は一旦家に帰って休み、朝また病院へ来るつもりだという。

「本当なら明日転院だったのに」と、今日一日を振り返り、「また明日」と言って電話を切った。

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