「終活ライター」が父を亡くしてやっとわかったこと~父が倒れて、息を引き取るまで
母の限界
父はその後、高熱を繰り返した。発熱を繰り返すことは、脳卒中の急性期ではよくあることだ。発熱を繰り返している間は絶食状態だが、「治まってきたら摂食訓練を始めたい」と、私は考えていた。
父の病院には「摂食嚥下障害認定看護師」がいるので、看護師長に相談して、きちんとした評価と摂食訓練をしてもらうよう母に伝えた。それをしてもらえなければ、口から食べられるようになることは難しい。病院のソーシャルワーカーに相談して、食べるリハビリをしてくれる病院や施設に移るしかない。
しかし母は、「そんな難しいことできない。病院に意見するようなことをして、父さんの扱いが悪くなったらどうするの?」と聞き入れなかった。
私が言うことは、知識や情報としては正しいのかもしれない。しかし、側で支える人に心の余裕がなければ受け入れられず、正しさは無意味になる。理想と現実を思い知った。
10日ほど過ぎた頃、「回復の見込みがないため、近々療養型病院に転院してもらいます」と主治医に告げられた。
多くの療養型病院はリハビリをしてくれない。療養型病院で義母を看取った経験のある母は、「寝たきりのまま死を待つ病院」というイメージがあると言い、落胆した。
2月8日。
早朝、母からの電話で起こされた。
「病院に足が向かない。まだ死んでもないのに涙が止まらない」と震えた声で言う。
私は母の涙を2回しか見たことがない。私の高校の合格発表のときと、私と父が大喧嘩したとき。いずれも私が10代の頃だ。気丈だと思っていた母が泣いている。
父が倒れてから約2週間。毎日欠かさず見舞いに行っていた母は、憔悴しきっていた。
「毎日行かなくていい。毎日行ってたら疲れるのは当然だ」。以前からそう伝えてきた。もしかしたら今後、父の介護生活は何十年も続くかもしれない。長距離走を短距離走のつもりで挑んだら、長くは走れない。それでも母は頑なだった。
「悪い妻じゃないか?」
絞り出すような母の言葉に愕然とした。なぜなら、私も「悪い娘じゃないか」と思っていたからだ。
私は遠方に住んでいることを理由に、毎日見舞いに行かなくても格好がつく。父や母のことを心配はしていても、生活を大きく変えるほどの影響はない。そんな身分に罪悪感を覚えていた。
「母さんは絶対に悪い妻なんかじゃない。周りの目なんて気にすることはない。医師や看護師さんは忙しいし、いろんな患者家族を見てきてる。母さんのことを悪く言う人なんていない」
まるで自分に言い訳するように母を諭した。
電話を切った後、すぐさま数十年ぶりに伯母に連絡した。母と伯母は仲が良い。母には直接側で話を聞いてくれる相手が必要だと思った。「私は側にいられないので、母をお願いします」。これが私にできる精一杯だった。
その夜、夢を見た。
眠っている私の鼻と口を、誰かが両手で塞いでくる。苦しくなって目を開ける。塞いでいたのは母だった。ハッとして目が覚めた。
父を支える母。母を支える私。支える側と支えられる側がある程度の距離を保たないと、引き摺り込まれて共倒れになってしまう。私も苦しくなっていた。
(後編へ続く)
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