「終活ライター」が父を亡くしてやっとわかったこと~父が倒れて、息を引き取るまで

ライフ

  • ブックマーク

もう一度口から食べさせてあげたい

 1月26日。

 名古屋は冬晴れ。風が冷たく、時折小雪が舞っていた。父が入院している病院の近くに神社があり、冬桜が満開だった。

 病院に着くと、母と弟が出迎えてくれた。病院はまだ新しく、見た目こそ明るい雰囲気だったが、私は物々しい空気を感じて足が重かった。

 カーテンの向こうに父がいる。しかし果たしてその人は確かに父だろうか?

 中に入ると、父はベッドに横たわり、目を開けていた。母が「瑞穂が来たよ」と伝えると、私の方に目を向けた。

 父だった。まだ旦木博雄その人だった。

 父は私たちを見て、少し表情が和らいだ。娘が嬉しそうに飛びつくと、目を細めて笑ったような気がした。

「なんだ。もっと悲壮感が漂ってるかと思った」

 安堵とともに緩む緊張を、そんな言葉で隠した。

 高熱が続き、前日までは危険な状態だったが、今日になって容態が安定してきたのだという。

 脳梗塞の後遺症で右半身が動かず、言葉も話せなくなってはいたが、こちらが言っていることは分かっているようだし、左手左足はよく動き、娘とじゃんけんをすることもできた。

 1時間ほど父の側で談笑していると、父は私のことを「もう帰れ」とでも言わんばかりに左手でぐいぐいと押し、目を閉じて寝てしまった。

「疲れたのかもしれない」。そう思い、私たちは帰った。

 1月27日。

 川崎に戻る前に病院に寄る。「おじいちゃんに漫才を見せたい」と娘が言うので、昨夜のうちに2人で段取りを話し合っていた。

 父の病室に入るなり「どーもー!」と始めると、父は無言で見ていたが、オチのところで「ブー!」と吹き出した。みんな笑っていた。

 私は希望を感じた。「これなら1週間以上保つだろう。次はリハビリだ」。帰路につきながら思った。

 父は、鼻からチューブで栄養を入れる「経鼻経管栄養」という処置をされていた。リハビリの開始は早ければ早いほうがいい。手足を動かすリハビリはもちろんだが、口から食べるリハビリも同じくらい重要だ。食べる力が衰えると栄養状態や覚醒が悪くなり、唇や舌を使わないと脳も衰えていく。ましてや父は、食べたり飲んだりすることが人一倍好きだった。「もう一度口から食べさせてあげたい」。そう思った。

次ページ:母の限界

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。