“透析大国”日本で「腎移植」が進まない事情 識者は「福生病院事件」をどう見たか

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否応なく生きられる社会

 福生病院発の問い掛けに、まず宗教学者の島田裕巳氏が応えた。

「日本で安楽死や尊厳死が定着するか否かは、日本人が個人としての決断ができるかどうかにかかっていると思います。安楽死が合法化されているオランダでは、家族が何と言っても本人は死を選びます。欧米では死も個人の判断に委ねられますが、周囲に看取られながら死にたいという日本の宗教観とは相容(あいい)れない。また日本では家族の意思に負けたり、医者や看護師との関係がウェットなので、彼らに左右されがちです」

 続いて、哲学者の適菜収氏の見解はこうだ。

「命が一番という単純な正義を掲げる人は、白か黒かの2択で考えようとし、思考を放棄する。『マークシートバカ』です。そして、彼らは人権を盾にそれを押し通そうとする。患者が透析再開を表明していたとも報じられていますが、追い詰められた状況で、それが本当に本人の意思だったと言えるかどうかの判断は極めて難しい。ケースバイケースで判断することこそが、医者の役割なのだと思います」

 評論家の呉智英氏が後を受ける。

「私の母は91歳で亡くなるまで血液透析を受けていました。晩年は足の先が壊死し、寝られないほどの痛みを訴えていて、私は『多少寿命が短くなってもいいから痛みを軽減してやってほしい』と医師に伝えましたが、寿命を奪う強力な鎮痛剤はなかなか打ってくれなかった。それを打たなければ92歳まで生きられたかもしれませんが、母のQOLを第一に考えました。我々は今、『否応なく生きられる社会』を生きている。苦しんで長く生きるよりも死にたい。そう考える人たちの『リビング・ウィル』をいかに尊重できるかが問われています」

 さらにジャーナリストの徳岡孝夫氏は、

「僕はね、病院に行って人工透析室の前を通る時、なぜかいつも足音を立てないようにしてしまうんですよ。今まさに、この部屋の中で透析を受けて苦しんでいる人がいると思うと、同情というか何というか……」

 とした上で、

「軍医でもあった森鴎外は、100年以上も前に『高瀬舟』を書き安楽死の問題に向き合っています。長年、病に苦しんでいた弟は自らの咽喉(のど)に剃刀を突き立て、それを抜いてとどめをさしてほしいと兄に迫る。逡巡の果てに、兄は弟を楽にしようと剃刀を抜く。その結果、弟殺しの罪人となった兄は、島流しにされ高瀬舟に乗せられますが、彼を護送する同心(江戸時代の役人)は自問する。この人は果たして罪人なのかと。福生病院の一件は、安易に悪者を仕立て上げるのではなく、皆がこの同心となることを求めているのだと思います」

 最後に、第1回で登場した福生病院の院長の言葉を紹介して締め括る。

「今回のことが、一時的にワーッと騒がれ、サッと収まってしまうことは望んでいません。とにかく議論を尽くしてほしい。でなければ、我々は進歩しません」

週刊新潮 2019年3月28日号掲載

特集「治療再開の意思に病院は応じず…『人工透析』と『尊厳死』」より

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