「久世福商店」は5年で全国73店舗 創業者が語る“食のセレクトショップ”誕生秘話

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お坊ちゃま?

久世:頸椎は痛めましたが、若い頃からスキーが大好きでしてね。東京生まれの東京育ちでしょ、田舎にあこがれるところがあったんです。

――久世氏の実家は東京・東池袋でレストランなど外食産業にケチャップやソースなどを卸す問屋さんを営んでいたという。

久世:私の父は久世福松というのですが、千葉県銚子の呉服問屋の倅で、祖父の借金のために東京に逃げてきた。そこで立ち上げたのが「久世商店」という卸問屋でした。これがそこそこ上手くいったようで、私自身はお坊ちゃまというほどではないけれど、小学校の頃から家庭教師をつけてもらう生活ではありました。

――なんでも、家庭教師は当時東大生で、後に初代防衛大臣を務めた久間章生氏だったという。

久世:久間さんになにかお願いをしに行ったことはありませんが、おつきあいは今でも続いています。両親には子供の頃から志賀高原とか、冬はスキーにもよく連れて行ってもらいました。

――60年代からスキーに行ければ十分にお坊ちゃまではある。

久世:そうなのかな、だから根性がないのかも……。

――都立高校から慶應大学へ進み、卒業後はダイエーに入社した。

久世:大学時代はスキーばかりで、学業の方は落ちこぼれ。優秀な人は銀行や証券会社へ進みましたからね。私はダイエーを創業した中内功さんの「流通革命」を読んで感銘を受け、ダイエーに入社。その年にダイエーは三越を抜いて、小売業トップになりました。私も食品売り場を希望したんですが、張り切りすぎて、こんなに競争の激しい世界には耐えられないと1年で挫折しました。

――は、早い……。

久世:だから根性がないんです。それで父に頼み込んで、実家の「久世商店」で営業をやることに。これが結構、性に合っていたようです。飛び込みでも色々なところに行きました。少しすると、リゾート地のペンションブームに火が付いて、そちらにも営業に行きました。元々、スキーで行き慣れているところでしたからね。

――食材の卸は順調に増えたというのだが、その一方で苦情が増えたという。

久世:東京の業者が荒らしている、と。でも、その頃になると、自分でペンションをやりたくなっていたんです。ただ、親に相談しても、「なんで大学まで出たのに山に引きこもるんだ」と言われ……。

――それでも1年がかりで親を説得し、75年に斑尾高原(長野県飯山市)でペンションを始める。

久世:当時、スキーのインストラクターをやるペンションのオヤジなどいませんでしたから、学生のお客さんがたくさん来てくれました。新しいスタイルのペンションとして、雑誌「POPEYE」の創刊2号にも掲載されたりもしたんですよ。

――そのペンションの開業2日目のお客として現れたのが、まゆみ夫人という。

久世:結婚して夫婦でペンションを経営しましたが、プライベートなんてないわけです。子供が病気になっても病院にも連れて行けない。それで、妻は子供をつれて実家に帰っちゃいましてね、一時は離婚を覚悟しました。

――数年の内にペンションを辞めることを約束。まゆみ夫人に戻ってきてもらった。

久世:セールスマンとか色々な仕事に手を出しましたが上手くいかず、かといってペンションも辞められない。そんな中、妻が手作りしたジャムが評判になってきたんです。

――地元で安く仕入れたりんごや杏を使って手作りしたジャムを、ペンションの朝食に出したり、宿泊客に分けていたのが評判となり、注文されるようになった。

久世:はじめは、ビニール袋に入れてさしあげていました。当時、ジャムの糖度は65度以上が主力でしたが、彼女の作るジャムは糖度50度くらいで、素材の味を活かして、甘すぎないのも支持されたと思います。それでジャムを瓶詰めにして、ペンションで売り出すとすごく売れたんです。他のペンションやショップにも置いてもらって、それもよく売れました。「斑尾高原農場」というブランド名をつけたのも良かったんでしょうね。ただし、斑尾高原に農場などなかったのですが……。

――最初は手造りジャム屋さんだったとは……。

久世:そのうちに農場を見学したいとか、工場を見たいという声も出てきました。とはいえ、農場はないし、ジャム製造を委託していた工場もプレハブ小屋みたいなところでしたから、お応えするわけにはいかない。その頃の、申し訳ないという思いが、今の「サンクゼールの丘」に表れていると思います。私たちは、函館のトラピスト修道院やフランスの農場などを訪ね歩き、地産地消の場を見てきて、ここ長野で実現させようと思ったんです。ただね、当時、中野市にあった会社を飯綱町に移すと宣言したら、社員の半分が辞めていきました。なんでわざわざ田舎に行くのかと……。

――現在、「サンクゼールの丘」では、もちろんジャムやワインがちゃんと自社製造されている。だが、それがなぜ、純和風の「久世福商店」に繋がるのだろうか。

久世:洋食材を扱うサンクゼールも長野を皮切りに様々なところに出店しました。地元の協力も得られて、ワイン製造に乗り出し、軽井沢や八ヶ岳、白馬、赤倉などリゾート地に進出して上手くいっていました。そこで東京にも出店しましたが、これが上手くいかない。リゾート気分で財布のひもが緩んだお客さんと、都心で生活されているお客様相手では売るものは同じではいけなかったようです。

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