ブレグジット考(上) 英国と欧州の気まずい関係
欧州連合(EU)からの離脱を巡って、英国が迷走を続けている。メイ政権のもたつきぶりと下院の混乱、世論のまとまりのなさは目を覆うばかりで、EU側から冷ややかな視線を浴びるばかりである。「英国」というかつての名ブランドは地に落ちた感がある。
何がこのような事態を引き起こしたのか、冷静に考えると得るものが乏しい離脱への道を英国にひた走らせたのは何か。
社会学視点で再検証
これらの問いに対し、「離脱派のポピュリストが人々の不安をあおった」「権限がEUに次々と移る中で主権を回復する意識が強まった」など、政治経済的な視点に基づく解説は枚挙にいとまがない。ここでは、あまり広く紹介されなかった社会学的な視点を中心に、問題を再検証してみたい。いくつかの調査が示す英国社会の実像は、英政界やメディアでの論議から見える姿と多少異なるからである。
離脱決定に至った背景には、欧州統合に対する英国の複雑な意識が横たわっている。西イングランド大学(UWE)准教授の社会学者グラハム・テイラーは、その著書『ブレグジット理解のために』(2017年、未邦訳)で、英国の歩みを次の4つの段階にわけて分析している。
1.ポスト帝国の危機
2.英国経済の金融化と脱工業化
3.アイデンティティー・クライシス
4.政党政治の揺らぎ
主にこの分類に従って、それぞれの段階で何が起きたのかを確認しつつ、EU離脱決定に至る英国社会の軌跡をたどりたい。
1.ポスト帝国の危機
第2次世界大戦の悲劇を二度と繰り返さないよう、欧州の国民国家が協力の道を探った結果、欧州統合の動きが生まれ、最終的にEU28カ国に行き着いた――。このような欧州戦後史の解釈は、なかば常識と受け止められてきた。多くの欧州市民も、筆者自身も、何となくそう思い込んできた。離脱派の「EUから抜け出せば、英国は本来の主権を回復できる」との主張も、このような歴史観に多くを依拠している。
これはしかし、事実に基づくとは言い難いのだという。戦前の欧州に国民国家が根付いていたわけではなかったからである。
「欧州の主要国家は一度も、国民国家であった試しはない。第2次大戦前、これらの国々は帝国だったのだ」
米エール大学教授のティモシー・スナイダーは、ウクライナ問題を描いた『不自由への道 ロシア、ヨーロッパ、アメリカ』(2018年、未邦訳)で、欧州現代史についてこう看破した。スナイダーは『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房)、『暴政 20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(慶應義塾大学出版会)などのベストセラーを生み出した中東欧現代史の専門家である。
確かに、英国もフランスもベルギーも、欧州統合が始まる前は植民地帝国であり、欧州に閉じこもる国家ではなかった。ドイツ第3帝国も、これらの国々とはやや異なる形で、しかし本来の領土を越えて勢力を拡大しようと試みていた。つまり、各国はそれぞれの形で、グローバル化していたのである。言われてみれば当たり前のことなのだが、欧州だけを見ていると見過ごしがちな事実である。
従って、欧州統合も、国民国家同士が単純に手を携えたわけではなかった。本国と植民地との間のネットワークを基軸に置く帝国的グローバル世界から、欧州内の連携を重視する欧州グローバル世界へと、国家の方針と国民の価値観を転換させる大事業だった。
「緩慢で痛みを伴うプロセス」
なかでも、大英帝国は最も輝かしい歴史を誇っただけに、自らの意識を転換させるうえでも大きな苦労を強いられた。
地球の随所で植民地を維持し、「太陽の沈まない国」といわれた英国は、本国と植民地との往来を自由化させて交流を促していた。戦前から少しずつ独立を許したものの、2度の大戦で敗れることがなかった英国は戦後もしばらく国際的な影響力を保ち、北大西洋条約機構(NATO)設立の主導権を発揮するなど大国ぶりを見せつけた。それだけに、遺産を手放すことへの強い抵抗感から判断が遅れ、ポスト帝国時代を迎えて危機に陥ったのである。ジェフェリー・オーウェン『帝国からヨーロッパへ 戦後イギリス産業の没落と再生』(1999年、邦訳は2004年、和田一夫監訳、名古屋大学出版会)は「帝国列強から『単なるヨーロッパへの一国』への移行は、緩慢で痛みを伴うプロセスであった。……戦争に勝利したせいで、変革への障害はイギリスのほうがドイツやフランスよりも遥かに大きかった」と説明している。
英国の没落は、1950年代から顕著になった。56年のスエズ危機では無様に撤退する姿をさらけ出し、中東やアフリカの植民地も次々と手放した。後退したのは外交面にとどまらず、経済面での衰退ぶりも目立った。企業の競争力低下や頻発する労働争議に悩む姿は「英国病」と呼ばれた。
この間、欧州大陸では1958年に欧州経済共同体(EEC)が、67年には欧州共同体(EC)が生まれ、統合が着々と進んでいた。英国がこうした統合欧州に擦り寄ったのは何より、凋落ぶりが激しい国家を何とか立て直す手段として、欧州内での連携を探ろうとしたからだった。
これは、明らかに屈辱だった。「英国は、こんな惨めな国ではない」といった反論が芽生え、逆に英国の優越性や個性を探る試みが盛り上がった。その中のいくつかは、後にEU離脱の原動力となるナショナリズムの台頭に結びついた。
しかも、英国からの加盟申請は1963年と67年の2度、却下されたのである。いずれも、英国に懐疑心を抱くフランス大統領シャルル・ドゴールが拒否権を行使したからで、英国がようやくECの加盟国となったのはドゴール退任後の73年である。このごたごたは英国民の一部にわだかまりを生み、欧州統合と距離を置く意識、欧州統合に疑いのまなざしを投げかける意識を増幅させた。
その結果、逆に欧州大陸側から見た英国は「気まずいパートナー」「嫌々ながらの欧州人」などと呼ばれることになった。
2.英国経済の金融化と脱工業化
英国病からの脱出を演出したのは、1979年に首相に就任したマーガレット・サッチャーである。彼女が進めた大胆な民営化や規制緩和政策「サッチャリズム」は、英国経済を再生させると同時に、経済の金融偏重化や国民間の所得格差も引き起こした。これは、欧州統合に対して懐疑的な彼女自身の態度と相まって、英欧間の亀裂を広げる素地となった。
サッチャーは、競争力を失った産業分野を大胆に切り捨て、補助金を削減し、脱工業化を推進した。また、上流階級の「仲良しクラブ」だったシティーに改革を促し、グローバル世界の金融センターへと脱皮させた。労働組合とも対決姿勢を取り、ストライキで応戦する組合側に一歩も引かず、労組の求心力を大幅に弱めることに成功した。
この間、経済統合を進めるフランスやドイツの製造業は、関税のない市場の恩恵を生かして競争力を蓄えた。『ブレグジット理解のために』は、欧州大陸経済と英国経済の手法の違いをこうまとめている。
「ドイツや大陸の経済がイノベーションと知識ベース型成長を推し進めたのに対し、英国が行き着いたのは脱工業化と金融化に基づく集積戦略だった」
1979年からの10年間で、英国での製造業への投資は13%未満の増加にとどまったのに対し、金融サービスへの投資は320%あまり増となった。この流れは、1997年から10年あまり労働党政権を担ったトニー・ブレアの「ニュー・レイバー」(新しい労働党)路線に引き継がれ、発展させられた。その結果、ロンドンのシティーは、世界一の金融センターへと成長した。
シティーの繁栄は、大英帝国崩壊で失った自信を英国に取り戻させた。また、「欧州統合から距離を置くことこそが英国の成功の秘訣」との意識を植え付けさせ、特に保守派の人々の間で欧州懐疑主義を広めることになったのである。
ポーランド移民が増えた一因
一方、極端な金融重視は国内でも様々なひずみをもたらした。『ブレグジット理解のために』は、こう解説する。
「英国経済は低技術、ローテク、低賃金のサービス産業ばかりが栄え、不確実で不安定な雇用形態が定着した。これは、EUに加盟した中東欧諸国からの移民が自由に渡航してくる現象を伴った」
国民投票の際に「英国から利益を吸い取っている」などと散々やり玉に挙げられたポーランド移民が増えた一因もここにあると考えられる。
経済の金融化はまた、その利益を受ける人々と低賃金労働者らとの所得格差、ロンドンと地方との地域格差を広げることにもなった。繁栄から取り残されて不満を抱える層は増大した。これらの人々が離脱派を支えただろうと、容易に想像できる。
ここで1つの疑問が湧く。英国の自信を回復させ、欧州統合への懐疑的意識を高めたのは、「経済効率化」と金融業の発展だった。これはエスタブリッシュメントやエリートの意識であり、グローバル世界だからこそ起きえた現象である。一方、その結果としてEU域内からの移民が増え、格差が広がり、大衆の意識には「道徳」的な不公平感が根付いた。こちらも同様に、欧州統合への反発を強めたのであるが、前者とは異なり反グローバル化の色彩が濃い。
「経済効率化」と「道徳」という2つの要素は、本来なら相反しているはずではないか。しかし、両極端に見える両者が連携したからこそ、国民投票で離脱支持が多数を占めるに至ったのだった。(つづく)