私が「人工知能は何にでも使えます」と言う理由 ――「自分好み」の情報の中で溺れないために
インターネットはディストピアを創ろうとしたのか
インターネットは、そもそも何を目的にして創られたものなのだろうか。
二十世紀半ばにMITの教授だったジョゼフ・カール・ロブネット・リックライダーは、インターネットの父とも言える存在だ。インターネットを生み出す直前、一九六〇年のリックライダーは「人とコンピュータとの共生」という論文を発表している。ここには「人間とコンピュータが共生することによって、人間はこれまで誰も考えたことのなかった方法で考え、マシンはこれまで到達できなかったデータ処理を行う」という未来像が描かれていた。この概念はインターネットだけでなく、マウスやタッチパネルでパーソナル・コンピュータやスマートフォンを扱うような、いま私たちが当たり前のように享受している情報社会の「未来」そのものを生み出した。そんな偉業に光が当たるのだから、リックライダーの業績は天才のなせる業(わざ)だと捉えられがちではある。しかし彼の伝記を紐解いていくと、実は驚くほど人間的で個人的な「想い」も浮き彫りになってくるのだ。
リックライダーは研究開発を進める日々の中で、新しい発想を思いついたり、データの中から新しい発見をしたりといった、クリエイティブな仕事がほとんどできないことにフラストレーションを感じていた。実際に行動記録をつけてみると、作業時間の八五パーセントが情報の整理や資料の出し入れなどに費やされていた。
平たく言えば「与えられた仕事が自分の思っていたものと違ったのでイライラした」ということなのかもしれないが、ともかく彼は雑務を「これも仕事だから」と割り切れず、「機械(コンピュータ)を使ってもっと効率的にやるべきだ」と考えるようになった。そんな、ある意味でワガママな「想い」が「人とコンピュータとの共生」という思想の背景にあった。
リックライダーは、研究者として「自分の考える理想の自分像」を追求したのである。その結果として生まれたのがインターネットなのだから、インターネットは私たちの中にある「ワガママ」を肯定してくれるものとなる。インターネットによって私たちは、より自分らしく、能動的な生き方ができるようになった──そのはずである。
にもかかわらず、現実のインターネット社会が、私たちから能動性を奪う方向に向かっているのはなぜなのか。その理由を知るには、インターネットが作った新しい経済ルール(自由経済の「発展の仕組み」の根本にかかわる新ルール)を把握しておく必要がある。
新しい経済ルールに拍車をかける「人工知能ブーム」
「インターネットによって、需要供給曲線は真逆になります」
これは約二十年前、筆者が大学に入学した頃に、経済学部のある教授が講義の最初に口にした言葉であり、経済ルールの変化にまつわる予言だった。
私たちの生きている実世界(アナログの世界)では、製品やサービスは「一つしかないもの」「自分だけのもの」が高価であり、「誰でも手にいれられるもの」「みんなが手にするもの」は価値が下がっていく。「一つしかないもの」を生産するためには、それを生み出せる職人さんが丹精込めて製品を作る必要があるのだから、高価になるのは当然だ。
一方でネットワークを介して繋がるデジタルの世界では、「自分だけ」しか使っていないサービスやアプリケーションは使いづらい。たとえばSNSをはじめとする「プラットフォーム」サービスは、自分以外のユーザーがいないと成り立たない。誰もが使っているからこそコミュニケーションツールとしての価値が生まれ、価値が生まれるからこそまたユーザーが増えて行く。
このような「みんなが使う」ことによって増大する性質の価値を、ネットワークは本来的に宿しており、それを経済学では「ネットワーク外部性」と呼ぶ。そしてこのネットワーク外部性こそが、インターネット出現以降の経済ルールを大きく変えたと言えるのだ。
もちろん現在でも、ネットワーク外部性の働きが弱く、品質そのものが価値として評価されやすい市場では、日本企業のお家芸だった「良い商品を開発・提供することで消費者に選択される」という過去の経済ルールが生きている。たとえばデジタルカメラでは、日本製品の世界シェアは依然として約九割を占めている。
だがインターネットを介したサービスのように、ネットワーク外部性が強く働く市場では、「良い製品」を開発・改善する糸口を技術者の拘(こだわ)りなどに求めることは難しい。糸口はサービスのユーザーが、更に表現の正確を期せば、右肩上がりで数を増やす正のスパイラルの中で「いつ」「どんな時に」「どのようにして」そのサービスを利用しているかなどの情報(データ)を提供してくれるユーザーこそが、与えてくれるものだからである。逆に言うとユーザーが集まらない限り、そもそも「良い製品」とは何なのかを推し量ることすら容易でない。
インターネット出現以降、このようにネットワーク外部性が自由経済の「発展の仕組み」を強く支え始めたのと歩調を合わせ、人工知能の存在感もまた劇的に大きくなった。なぜならユーザーの情報を解析し、サービス提供者にとって最適なデータを提供するアルゴリズムこそが人工知能だからである。
人工知能と言うと、人間のような、あるいはそれ以上の、高度な知的判断を行っているように感じられるかもしれないが、タネを明かせば結局のところ、機械的な「処理」である。人工知能が処理した情報がサービス提供者に活用されれば、それは新たな自由経済の原動力となるし、サービスユーザーに活用されれば、それは「パーソナライゼーション」に繋がって行く。あるユーザーに向けた情報の「カスタマイズ」は、あくまでそのユーザーの過去データから類似のユーザーを探し出し、彼らが好む(「いいね!」を押す、クリックをする、などの)情報を教えているに過ぎないのだ。
その「処理」の意義を決して低く見ることができないのは、これまで縷(る)々(る)述べてきた通りなのだが、だからと言ってフィルターバブルの中で思考停止し能動性を失っていくのもオモシロクない。私たちは、どうすれば人工知能社会をオモシロイものにしていけるのだろうか。
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