「キャッシュレス化」実験で「楽天」が狙う「ビッグデータ」獲得

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 J1開幕から1カ月、注目を集める「ヴィッセル神戸」。元スペイン代表のアンドレス・イニエスタとダビド・ビジャ、元ドイツ代表のルーカス・ポドルスキの「ビッグ3」を擁し、開幕4試合を経て首位と3ポイント差の6位と好位置につけている。

 そうしたスター軍団の陰に隠れて目立たないが、実はヴィッセルのホーム「ノエビアスタジアム神戸(ノエスタ)」では壮大な社会実験が進んでいる。スタジアム内の売店で現金を使えなくする「キャッシュレス化」だ。

「シャリ~ン」「ピピッ」

 3月2日、ノエスタで迎えたホーム初戦には2万5000人の大観衆が押し寄せた。ノエスタは市営地下鉄海岸線の御崎公園駅から徒歩5分。町のど真ん中にある。駅からスタジアムまでの道の両側にはヴィッセルののぼりが立ち、露店がTシャツやお弁当を売っている。もちろん、ここはまだ「日本」なので日本銀行券(日本銀行が発行する紙幣、いわゆる日本円)が使える。

 スタジアムが近づくと、「現金使用できません」と書いた黄色い看板をぶら下げたスタッフが目につき始める。

 「本日はスタジアム内、現金が使用できませーん。電子マネーやキャッシュカードをご用意くださーい」

 ここまで来て「ご用意ください」と言われても困るが、意外なことに文句を言う客は1人もいない。今日から「キャッシュレス」になることは、主催者がインターネットなどを通じて再三、告知しており、サポーターの皆さんは先刻ご承知と言うわけだ。

 スタジアムの敷地に一歩足を踏み入れると、そこはもはや「日本」ではなくなる。イニエスタの背番号8が入ったヴィッセルの「レプリカ・ユニフォーム」も、神戸名物、熱々の「ケンミンの焼ビーフン」も、紙コップに入った「コカ・コーラ」も、敷地内で売られているものは一切合切、日本銀行券で買うことはできない。このエリアで物を買うには、「楽天ペイ」「Apple Pay」といったスマートフォンの決済アプリ、「楽天Edy」などの電子マネー、そしてクレジットカードやデビットカード、つまり現金以外の決済手段が必要なのだ。

 試合開始の1時間前、ノエスタの敷地内はすでに「ビッグ3」の揃い踏みを一目見ようと集まったサポーターで溢れかえっている。プロ野球の「東北楽天ゴールデンイーグルス」の本拠地「楽天生命パーク宮城」と同様に、ここノエスタも、楽天会長兼社長である三木谷浩史氏の発案で「試合を観ない人も楽しめるボールパーク」を目指しており、屋台が立ち並ぶ敷地内は、縁日のような賑わいだ。焼きそばや、ビーフンや、クレープの屋台には、いい匂いに誘われて客の列ができているが、客が1000円札を出し「はい、300円のお釣りねー」という、見慣れたやり取りはなく、みんなスマホやカードで「シャリ~ン」「ピピッ」とやっている。

キャッシュ・レジスターの代わりに……

 一番、長い行列ができていた「ケンミンの焼ビーフン」のお兄さんに聞くと、「いつもより待ち時間が長い、ってことはないっす。慣れてくれば、お釣りを渡す手間がない分、早くなるんじゃないっすか」と、キャッシュレス化初日の様子を教えてくれた。

 まあ、いまどきの大人なら決済アプリの入ったスマホや、電子マネーくらいは持っているのかもしれない。しかし、そんな物を持ち合わせない、ちびっ子やお年寄りはどうするのか。

 屋台の行列を観察すると、ちびっ子たちはヴィッセルのロゴが入ったカードを差し出し、お店のお兄さん、お姉さんに「シャリ~ン」とやってもらっている。入場するとき電子マネーのカードを渡され、会場内のチャージ機で、もらったお小遣いをカードにチャージして使っていた。なるほど、これなら現金しか持たずに来た人も、買い物ができる。

 スタジアム内の通路にあるグッズ・ショップでは、8番(イニエスタ)、7番(ビジャ)、10番(ポドルスキ)のユニフォームが飛ぶように売れている。レジには見慣れたキャッシュ・レジスターの代わりに各種オンライン決済のリーダーが揃っている。

 夫とお揃いで12番(サポーターのための背番号)のユニフォームを着た60代の女性は手元のスマホでQRコードを読み取り、その場で「楽天ペイ」のアプリをダウンロード。「これでいいのよね」と店員に確認した後、緊張気味に画面のボタンを指で横にスライドさせて支払いを済ませた。「思ったより簡単ね」と、ほっとした様子だ。40代の女性が「私、楽天市場の会員なんだけど、楽天スーパーポイントで払ってもいいのよね」と聞くと、店員が「大丈夫です」と微笑んだ。

 この日の対戦相手は元スペイン代表フェルナンド・トーレスを擁する「サガン鳥栖」。イニエスタ、ビジャと合わせ「無敵艦隊」と呼ばれた元スペイン代表3人が競演するとあって、キックオフ前からスタジアムのボルテージは上がりっぱなしだ。メインスタンド右手のゴール裏の一角は、水色とピンクのユニフォームに身を包んだ鳥栖のサポーターが陣取ったが、残りのスペースは臙脂色のヴィッセル・サポーターで埋め尽くされた。

 スタンドの外には鳥栖のグッズを売るテントもあり、鳥栖サポーターの行列ができていた。こちらは神戸サポーターほど事前の周知が徹底していなかったようで、「え、現金だめなの」と驚き、渋々クレジットカードを出す客もいた。とはいえ、大きな混乱はなかったようだ。

膨大で貴重なデータ

 具体的な売上高は非公表だが、この日のグッズ販売は去年の開幕戦を大きく上回ったという。去年の開幕時点でまだ在籍していなかったイニエスタとビジャの効果が大きいと見られるものの、「キャッシュレス化」による売り上げダウンはなかったと言える。

 楽天は楽天イーグルスの本拠地開幕戦となる4月2日の「北海道日本ハムファイターズ」戦から、楽天生命パーク宮城でも「キャッシュス化」を実施する。プロ野球のファンはサッカーより年齢層が高いため、楽天ペイ事業部の小林重信執行役員は、「ノエスタより対応が難しくなるかもしれない」と懸念している。神戸と仙台という地域の違いで、来場者の反応が変わる可能性もある。

 「こんな実験ができるのも、ヴィッセル・サポーターとイーグルス・ファンの皆さんのご協力のお陰」と小林氏は言う。

 現金が幅を利かせる日本は、キャッシュレス化で中国や米国に大きく遅れている。しかし、だからといって渋谷や銀座で突然「現金使えません」とやったら、「金を払うと言っているのに、売らないとはどういう料簡だ!」と暴れる客も出てくるだろう。

 球場という限られた空間とはいえ「現金が使えない場所」を作れたのは、グループにヴィッセル神戸と楽天イーグルスを持つ楽天ならでは。社会実験を続けることで「キャッシュレス化で来場者の購買行動はどう変わるか」「どの時間帯にどんな物がどれだけ売れるのか」など、貴重なデータを膨大に集めることができる。

 2つのスタジアムで続く社会実験は、IT企業の楽天に大きな恩恵をもたらすことになる。

大西康之
経済ジャーナリスト、1965年生まれ。1988年日本経済新聞に入社し、産業部で企業取材を担当。98年、欧州総局(ロンドン)。日本経済新聞編集委員、日経ビジネス編集委員を経て2016年に独立。著書に「稲盛和夫最後の闘い~JAL再生に賭けた経営者人生」(日本経済新聞)、「会社が消えた日~三洋電機10万人のそれから」(日経BP)、「ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝説のエンジニア 佐々木正」(新潮社)、「東芝解体 電機メーカーが消える日」 (講談社現代新書)、「東芝 原子力敗戦」(文藝春秋)がある。

Foresight 2019年3月22日掲載

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