廃炉という「非日常の日常」を描く:竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』
また3月11日が巡ってきた。
東日本大震災から8年。日々の報道が減るなか、まだら模様の被災地の復興と、一筋縄ではいかない福島第1原子力発電所の廃炉の歩みについて、定点観測的に大量の情報があふれる時期だ。
前者と後者は、「放射能汚染」という補助線でつながっている。厄介なのは、このテーマにはデマや、反原発運動のプロパガンダといった情報のノイズが大量に入り込むのが常なことだ。大量のノイズには、風評被害や誤解といった直接的な弊害だけでなく、事実をふるい分ける作業の負担の重さが、人々を無関心へと押しやってしまうという間接的な害悪がある。
私は若いころから原発というテーマに関心を寄せ続けてきた。この「ノイズの処理」は昔から面倒な問題だったが、「3・11」以降、その度合いは格段に増してしまった。
「フクイチなんて言う奴はいない」
竜田一人(たつた・かずと)の『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』(講談社)は、そうしたノイズやバイアスのない貴重な情報源であり、しかもそれをマンガという手段で表現した稀有な作品だ。
どこまで意図的なものかは分からないが、私は、このタイトル自体に、作者の現場主義というスタンスを強く感じる。
「いちえふ」は1F=福島第1を指す、地元住民や「現場」の作業員の間で使われる呼び名だ。メディア等では「フクイチ」と表記される例が多いが、作者・竜田は単行本第1巻の冒頭で「1Fをフクイチなんて言う奴はまずここにはいない」と指摘している。
「フクイチ」という言葉は略称として定着しており、実際問題としてメディアが「いちえふ」という言葉を使っても読者・視聴者には伝わらないだろう。これは現地・現場と「部外者」の距離の開きを象徴している。
「いちえふ」というひらがな表記も私には好ましく感じられる。福島を「フクシマ」と表記する論者や記事に接すると、私の「ノイズセンサー」は敏感に反応する。すべてがそうとは言わないが、わざわざカタカナ表記する裏には、被爆地の「ヒロシマ」「ナガサキ」との連想を意図しているケースが少なくない。
副題の「福島第一原子力発電所労働記」が示す通り、これは現場作業員として「いちえふ」で働いた作者の体験記だ。潜入ルポという手法自体はノンフィクションの常道であり、目新しくはない。この作品がユニークなのは、「取材ありき」のジャーナリスティックな企画ではなく、「とりあえず現場に行って働いてみたい」という個人的な動機が出発点になっていたことだろう。
もちろん「いちえふ」に行く前から「売れないながらも」漫画家だった作者が、アウトプットのことをまったく考えずに現地に行ったわけではない。その辺りの事情は正直に3巻の最初に描かれている。
それでも、全編を読んで伝わってくるのは、表現者=漫画家であることより、作業員として現場に参加することを優先しようとする作者の本音である。この「現場寄り」のあり方が、作品の誠実さや政治的な中立性を補強する材料になっている。
現実とのギャップを暴く
体験記は、作者が働いた期間によって大きく2つのパートに分かれる。作者は最初に2012年6月から半年間、2014年にも2度目の「いちえふ」入りを果たしている。好奇心と「男気」から、作者は一貫して高線量の危険な現場を志願し、2度目の2014年7月には原子炉建屋に立ち入る作業を担当している。
描かれるのは、「これでもか」という現場のディテールの積み重ねである。
細部の描写は、2011年の震災・原発事故直後のハローワークでの職探しから始まる。企業名などは匿名ではあるが、末端の作業員が東京電力から数えて実に6次下請けといった形で十分な処遇を受けられない実態などが描かれる。「いちえふ」内の日々の作業員のルーティーンについても、防護服や防護マスクの身に着け方のノウハウや、被ばく量管理の実態、作業員のトイレ事情にまで及び、現場で長く働いた者にしか分からないリアリティーにあふれている。文字ならうんざりしそうな情報量だが、しっかりした画力とところどころに「小ネタ」を挟むマンガ的手法のおかげでスッと頭に入る。
作中の時間が2014年に進むと、廃炉作業の詳細や被ばくを最小限に抑えるための現場の工夫の描写は真に迫るものになる。なんといっても、舞台はあの大規模な水素爆発を起こした1号機と3号機の原子炉建屋なのだ。この辺りは読みごたえ十分だ。
この作品の魅力は、こうしたディテール自体の情報価値の高さだけにあるわけではない。
自身を「結局、首都圏の人間だ」と認める作者は、被災者でありながら「いちえふ」の作業員でもある地元労働者と一体感を抱き、仮設住宅で暮らす住民たちとも「流しのギター」的なライブの慰問で交流する。ネットやメディアに流れる放射能の脅威を煽る「デマ」もところどころで取り上げ、現実とのギャップを暴いてみせる。
それでいて、現場の作業員として、廃炉作業の気の遠くなるような困難さには一切の甘い見通しは抱いていない。このバランスの取り方が絶妙で、心地よい読み味につながっている。同じテーマをジャーナリストが潜入ルポで描いていたら、もっと力みかえった肩が凝る読み物になってしまっていただろう。
どこにでもある「現場」
ここで本作から少し離れて私自身の原子力発電と原発事故についての考えを付記しておきたい。
私はかなり筋金入りの原発反対派だ。ただし、それはいわゆる左翼的な政治思想とは無縁のもので、単に「こんなに地震が多くて、すぐ隣に北朝鮮という不安定な国がある日本に原発を作るのは合理性がない」という理由による。だから世界中から原発が消えた方が良いといった極論には与しない。日本や、あるいはインドネシアといった地震多発地帯には向いていないというだけの話だ。
中高生のころ、「ノイズ」に惑わされながらこの分野の本をかなり読んで達したこの結論は、1995年の阪神・淡路大震災で確信に変わった。横倒しになった高速道路や亀裂で機能不全に陥った港湾を見て、人工建造物が「地震に備える」ことの限界を実感した。予言者ぶるつもりはない。地震による直接のダメージではなく、津波が全電源喪失という形で脅威になるというのは「想定外」だったのだから。
『いちえふ』に戻ろう。
舞台が舞台なだけに、豊富なディテールに登場人物たちの陰影や心理描写が加わり、飽きさせない読み物には仕上がっている。ただ、あえて誤解を恐れず言えば、テーマが原発でなければ、これは退屈な「作業員の日記」でしかない。それはおそらく、作者が意図したところでもある。本作は、賢明にも、原子力政策や東京電力の責任論、復興計画への批判といった政治的なテーマを完全に排除している。「作業員の目から見た『いちえふ』の日常」を描くことに徹しているのだ。
原発の廃炉という非日常と、日銭稼ぎでパチンコに興じる肉体労働者たちという、日本中どこにでもある日常のミスマッチ。サラリと挿入される「でも、誰かがやんないとね」といったナレーションなど被ばくのリスクを背負って難事に当たる矜持がにじみ出るものの、「放射能という特殊要因はあるけれど、ここは地道な作業を積み重ねる、どこにでもある『現場』だ」という姿勢は最後まで崩れない。
『いちえふ』はいったん完結した状態となっているが、作者は講演やツイッターを通じた情報発信で「福島の現実」を伝える活動を「覆面」で続けている。覆面作家を貫いているのは、再び「いちえふ」の現場に復帰する道を探っているからだという。現時点で現場復帰が叶っていないのは、すでに正体がバレて「ブラックリスト」入りしているからかもしれない。
作中でも2012年と2014年の2年の間に廃炉作業が格段に進んだ様子が描かれている。同じ書き手の視線で、アップデートした「福島の現在」をぜひ読みたい。作者の「いちえふ」復帰を願ってやまない。