「ザ・デストロイヤーさん」逝去 勲章受章で本人が語った帰国後の生活
覆面レスラーとして活躍した「ザ・デストロイヤー」ことリチャード・ベイヤーさんが、3月7日に米国の自宅で死去した。88歳だった。
日米友好親善に尽力したデストロイヤーさんには、2017年に、秋の叙勲で旭日双光章が贈られている。このとき「週刊新潮」に寄せた“肉声”を、改めてご紹介したい(以下は11月16日号掲載当時のもの)
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そもそも覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」は、なぜマスクをするようになったのかご存じだろうか。答えは後述するとして、秋の叙勲で往年の大プロレスラーに再び脚光を当てるとは、内閣府も粋なことをするではないか。
今回、旭日双光章を受章したザ・デストロイヤー(87)=本名・リチャード・ベイヤー=の名が、どれだけ日本社会で親しまれていたか、それを示す数値がある。
「テレビの視聴率調査が始まってから今まで、トップ50の中にプロレス中継が2つあるのです。ひとつは1963年のデストロイヤー対力道山戦(64・0%)、もうひとつは65年のデストロイヤー対豊登(とよのぼり)戦(51・2%)です。どちらもデストロイヤー戦なのです」(プロレス評論家の斎藤文彦氏)
最初はアメリカWWAのヘビー級チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、もともとシラキュース大学大学院を出たインテリ。アメフトやレスリングで活躍していたところをロサンゼルスのプロモーターにスカウトされる。
「ところが様々なスポーツで前歯が2本欠け、おまけに若ハゲだったことからプロモーターが“マスクを被れ”と覆面レスラーに仕立てたのです。しかし、これがきっかけでブレイクしました」(同)
力道山の死後、日本プロレスが全日本プロレスと新日本プロレスに分裂すると、デストロイヤーは「全日本」に所属、家族も呼び寄せて日本で生活するようになる。
有名なのは、覆面レスラーのイメージを守るため、シャワー以外は決してマスクを外さなかったことだ。
全日本プロレス名誉レフェリーの和田京平氏が振り返る。
「ご飯を食べる時もマスクをしたまま、車に乗るときもマスク。一度だけ、見知らぬ外人がシャワー室から出てきたのを、まじまじと見たら“ボクだよ”と言うので分かったことがありました」
入国管理局も、9・11のテロ事件まで、「はい、デストロイヤーさん、どうぞ」とマスクのまま通していたのは知る人ぞ知る話である。
プロレスだけでなくバラエティ番組でも人気を博し「金曜10時!うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)では、和田アキ子にハリセンでぶっ叩かれたりもした。
93年7月、日本武道館で引退試合を行ったデストロイヤー、本国(ニューヨーク州アクロン)に戻ってからの暮らしは、ご本人に語ってもらおう。
誰も知らなかった
「日本ではプロレスやTV出演ですごい人気だったけど、アメリカに戻ると私が人気者だったことは誰も知らなかったよ。でも、生きてゆくためには働かなくてはならないでしょう。大学時代に教育学の修士号を取っていたので、水泳やレスリングのコーチをするようになったのです。私にとっては自然なことだったね」
「そのあと教えていた高校生や7〜11歳のちびっ子たちを日本に連れてゆきました。世界を知ってもらうためです。皆、日本に行くと驚いていたよ。これを20年やったんだ」
叙勲の理由もこれである。最近は足を悪くして、4の字固めもままならないというデストロイヤー、そのマスク姿をまた見せて欲しいものである。