ドナルド・キーン氏とCIA東京支局長の関係:日本文学研究を勧めた恩人
日本文学に偉大な貢献を為し、最後は日本人として亡くなったドナルド・キーン氏(享年96)。本当に希有な元アメリカ人だった。
私は約20年前、一度だけ会うことができた。彼の自宅で貴重なインタビューに応じてくれた。
その時にお借りして複写した写真が拙著『秘密のファイルーCIAの対日工作』(新潮文庫)に掲載されている。写っているのは、ポール・ブルーム氏。戦後の1948年、初代の米中央情報局(CIA)東京支局長として赴任した。吉田茂首相とも親しい伝説的なスパイだった。真珠湾攻撃前の1941年夏、米ノースカロライナ州ブルーリッジ山脈の谷あいでくつろぐブルーム氏をキーン氏が撮った写真である。
山中で一緒に合宿
2人は前年、コロンビア大学で知り合った。ブルーム氏は横浜・山手の生まれで当時BIJ(Born In Japan)と呼ばれた。フランス人民戦線のレオン・ブルム首相の遠縁で、父はフランス人、母はアメリカ人でいずれもユダヤ系だった。一家でフランスに戻ったが、ドイツ軍のパリ入城でニューヨークに逃れた。40歳を過ぎていたが、日本語を学び直そうとしていた。
世界各地を旅していたブルーム氏はまだ18、19歳のキーン氏に自分の経験を話した。実は日本文学の道を選ぶよう勧めたのは、ブルーム氏だった。ブルーム氏との出会いが、キーン氏の転機となった。
「フランスで育ったアメリカ人はたくさんいる。日本のことをよく知っているアメリカ人は少ないので日本文学をやった方が君のためになる」と言われたという。
この2人ともう1人のアメリカ人で日本と中国を研究していた人物、そしていわゆる「帰米2世」(米国に生まれ、中等教育を日本で受けて米国に戻った2世)の猪俣正という青年の4人で合宿中に撮ったものだった。
しかし、日米開戦。ブルーム氏はワシントンに向かい、発足したばかりの戦略情報局(OSS)に入り、第2次世界大戦の末期はスイス・ベルンで、後のCIA長官アレン・ダレスの下で終戦工作に従事した。
スラスラ話した日本人捕虜
他方、キーン氏は海軍日本語学校で日本語を学び、戦時中はその日本語能力を使って、各地で日本軍捕虜の尋問に携わった。
その時の日本語教官に、邦字紙『羅府新報』記者や『朝日新聞』ロサンゼルス通信員をしていた1世の記者、坂井米夫がいた。坂井は終戦前の1945年にOSSに入り、「日系人要員を日本国内に潜入させ、天皇に無条件降伏を直訴する」という奇抜な計画を立案した。
当時の日本軍人は戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられており、捕虜になってどう対応すべきか分からず、キーン氏らの質問に対して、日本軍の内情をすらすら答えたようだ。
いずれにしても、ブルーム、キーン、坂井の3氏らは日本軍国主義を嫌い、戦った人たちだった。
戦後、1947年にCIAが発足、ブルーム氏らがCIA東京支局を設立した。
ブルーム氏は文人肌で、欧米で日本について書かれた稀覯本(きこうぼん)を含む文献を収集するのが趣味だった。現在、横浜開港資料館にブルーム・コレクションが置かれている。
他方、三島由紀夫らとも交遊、戦後はCIAの仕事もやりながら、時折キーン氏らとも会っていただろう。
しかし、キーン氏は自分からブルーム氏との関係を明かすことはほとんどなかった。私には、懐かしい表情を浮かべて話してくれたが、インテリジェンス関係の人物のことを軽々に話して変な陰謀説に巻き込まれるのを避けたかったのかもしれない。