早大スーフリ事件「和田サン」懺悔録 私が“鬼畜集団の首領”になるまで

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父の事件がきっかけで

 メンバーの中には、どんな女性とセックスしたかをすべて「ギャル帳」にメモっている者もいましたが、私の場合は200~300人ほどでしょうか。ただ98年以降、逮捕されるまでの間もいわゆるセフレ、当時の言葉で「おかわりする女性」はいました。常に新規の女性を探しながら、見つからない時はそういう女性を呼んで欲望を満たしていたのです。でも、行為が終わるとその子への興味が一気に失せ「終電で帰ってくれよ」と思っていた。だから当時、私はメンバーらの前で「おかわりは恥と思え」などと嘯いていました。

“まわし”を始めて数年後、01年頃からサークルは軌道に乗り出しました。当時、私は大学の7年生で、後輩たちはみんな卒業していく。で、年長者になって周りから「和田サン」と持ち上げられるようになった。これでいいのか、それともダラダラ遊び続けるのかと考えましたが、結局は楽な方に流されてしまった。

 その01年には授業料未払いで退学処分になるのですが(注・02年に第二文学部に再入学)、すでに“30歳まではやろう”と開き直っていました。とにかく後輩の前ではしきりに「女は撃つための公共物だ」「俺が大学にいるのは4月のため」なんて口から出まかせを吐いて“和田サンキャラ”を演じていました。もう、どこまでが地でどこからが演技か、自分でも分からなくなっていたのです。

 そのような麻痺した感覚や歪んだ認識は、刑務所の中で過ごすうち、少しずつ正されていきました。自分の行為がいかにひどいものだったか、最も痛感したのは入所して2~3年経った頃、父親が犯罪の被害に遭ったことがきっかけでした。

 自らが引き起こした事件によって、私は家族をはじめ親類ともほとんど絶縁状態にありましたが、辛うじて母親とは、月に1回の割合で手紙をやり取りしていました。その中で、タクシー運転手をしている父が「事件」に巻き込まれたと知らされました。酔っ払った乗客に暴力を振るわれ、重いけがを負って入院したのだといい、その時、犯人に対して強い憤りを感じました。と同時に、私が傷つけてきた事件の被害者の方々やご家族も、私が感じる以上に犯人を憎いと思っただろうな、これまで抱いてきた反省の気持ちなど、まるで実感が伴っていなかった――そう気づいて、ようやく実体として反省というものが見えてきたのです。

 幸い父親は大事には至らず、今でも仕事を続けていますが、殴った犯人は賠償も全然できないような相手で、起訴もされず罰金だけで釈放されたと聞かされ、全く納得がいかなかった。でも、私が尊厳を貶めてきた被害者のご家族も、決して私の判決には納得していないだろうし、それに比べたら私の怒りなどまるで小さなものではないか。そう思えたのでした。

(3)につづく
⇒早大スーフリ事件「和田サン」懺悔録 女の子の一人や二人……元凶は「歪んだ優越感」

週刊新潮 2019年2月21日号掲載

独占手記「刑期を終えた『スーフリ事件』主犯『和田サン』懺悔録」より

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