早大スーフリ事件「和田サン」懺悔録 現在は別名、15年の“塀の中”生活を明かす
印刷工場から炊事場へ
03年6月に逮捕されてから、私はまず警視庁品川署に留置され、起訴された後は東京拘置所に移されました。公判中はずっと独居房で、外界との接点が新聞とラジオしかなく、初めは精神的重圧で押しつぶされそうになりました。仲間は口を揃えて「和田に言われて仕方なくやった」と供述し、当時は裏切られたと感じたものですが、今では“自分が彼らの立場だったらそう言うだろうな”と思えるまでになりました。
そのうちラジオのニュースで共犯の判決を知ることとなり「きっと自分はこれより重いのだな」と、14年の想定はできていました。おかしな話ですが、刑が確定すると、かえって重圧から解放されたような感じがしたものです。
千葉刑務所に入って、最初に配属されたのは、所内で「エリート工場」と言われる印刷工場でした。配属先は受刑者の属性によって異なるのですが、事前に“スーパーフリーの和田が来る”という情報は伝わっていたようで、担当の看守さんが目を光らせてくれ、絡んでくるような人はめったにいませんでした。
部屋は雑居房で、10人で共同生活。ほとんど1人1畳分という暮らしです。よく漫画やドラマで、有名な犯罪者や新入りがいじめに遭う描写がありますが、私の場合は拍子抜けするくらい何もありませんでした。
工場では、法務局の書類の印刷など、案外クリエイティブな仕事があって「刑務所でこんなに一般社会に近い仕事があるんだ」と驚きました。当時の工場は忙しく、オフセット印刷で1台何千万円もするような輪転機が何台も置かれ、パソコンができる受刑者は発注先の依頼に合わせてフォトショップでデザインもしていた。私は印刷機の操作を1年務めた後に、校正係となりました。
印刷工場には7年いて、その後は「炊場(すいじょう)」という、受刑者の食事を作る工場に転業しました。炊事や洗濯、営繕など、刑務所の運営に関わる仕事は「経理工場」と呼ばれ、そこでは5年ほど働きましたが、仕事は激務でした。
千葉刑務所の場合、仕事のある平日は朝6時半起床で夜9時就寝なのですが、炊場担当者は朝食の準備で朝5時半から仕事が始まる。残業もあって、印刷工場の時は夕方4時過ぎには部屋に戻れたのですが、炊場は6時半まで働く。各工場や居室棟から食器等を回収し、機械に通して皿洗いも全部こなすのです。最大の効率で進めないと時間内に終わりません。だから務まらず、作業拒否する人が絶えない職場だったのですが、私は不思議と「ああ、俺は今生きているんだ」と実感しながら働いていました。他の人がへこたれる仕事を自分は我慢してやっているという、意地の張り合いみたいなものがあったのです。
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