海老蔵が激怒した“勘九郎と確執”報道 親子2代の遺恨が囁かれる裏側

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例えば、成田屋

 しがらみの一因は、1993年、「スポニチ」に掲載された勘三郎(当時は中村勘九郎名)の連載エッセーだ。以下は、歌舞伎を運営する松竹の関係者の述懐。

「30代後半で人気絶頂にあった勘三郎さんが、“團十郎はヘタ”とやらかして騒ぎになったんです。当時40代後半だった團十郎さんの評判は“口跡(こうせき)が悪く不器用”。台詞回しに難があって、まだるっこしいけど、芝居のスケールは大きいという具合でしたから」

 エッセーは記者が談話をまとめたものだったというが、紙面から引くと、

〈歌舞伎の場合、どういうのがヘタかって、その定義はすごく難しい。ヘタでも大きいっていうのがあるからね。名前、言わないよ。ダメだよ、言っちゃ。まあ、いいや。例えば、成田屋(市川団十郎)。言っちゃった。ハハ……〉

 冗談めかしてはいても、

「“やはり中村屋は成田屋をそう見ていたのか”といった認識が広まり、大騒ぎになりました。スポニチの担当者たちは各所で頭の下げ通しでした。うちの永山武臣会長(当時)が“團十郎を汚すとはなにごとだ”と仏頂面だったのに、当の團十郎さんは、“出ちゃったもんは仕方ないよ”とおおらかだったそうです。そもそも、勘三郎さんは團十郎さんを“兄さん”とか“歌舞伎界の長嶋茂雄”と呼んで慕っていた。なのに、“確執”が作られたわけですよ」

 こんな幕の内、“十三代目”はご存じでした?

週刊新潮 2019年2月7日号掲載

ワイド特集「縁は異なもの味なもの」より

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