「東日本衰退」に楔を打ち込む新潟「長岡技術科学大学」の挑戦
人口減少が続くわが国で地方都市の将来は暗い。1月31日、総務省が公表した「住民基本台帳人口移動報告」によると、全市町村の72%で人口が流出し、増加しているのは東京圏(東京、埼玉、千葉、神奈川)、愛知、大阪、福岡、滋賀の8都府県だけだった。
特に東京圏への流入は凄まじく、差し引き13万9868人の増だ。逆に流出が多いのは、茨城(7744人)、福島(7421人)、新潟(6901人)だった。
ここで言う「流入」とは、転入者数から転出者数を差し引いた分を差す。これがマイナスになり、転入者よりも転出者が多い場合は、その差し引いた分を「流出」としている。
北海道、北関東、東北、甲信越の流出の合計は約6万人だ。東京圏への転入者のうち、これらの地域から来た人たちは2割弱を占めている。
ちなみに、北海道、北関東、東北、甲信越の人口に占める流出率は平均して0.23%だ。それぞれの地域の中核道県である北海道、宮城、新潟を除けば0.29%となる。
これは西日本より遙かに高い。中核府県の大阪、京都、兵庫、広島、福岡を除く19県の流出は5万3694人で、人口比で0.22%だ。そのうえ中国、九州、四国地方の人口は計2552万人で、北海道、北関東、東北、甲信越の合計とほぼ同じ。つまり、東日本の地方都市の縮小は深刻なのである。
これは人口流出率が高い県の名前を挙げればイメージが湧く。流出率が最も高いのは長崎で0.49%だが、2位以下は青森(0.49%)、秋田(0.44%)、山梨(0.41%)、岩手(0.40%)、福島(0.39%)と続く。
東京圏一極集中の実態は、東北地方・甲信越地方の空洞化と言ってもいい。2014年に元岩手県知事の増田寛也氏が座長を務める「日本創成会議」が、「消滅可能性都市」を報告したのも宜なるかなだ。増田氏の父は岩手県胆沢郡前沢町(現奥州市)出身。県知事を務めた経験からも、東日本の地方都市の衰退が肌感覚で分かるのだろう。
考えさせられる経験
解決策はあるのだろうか。
最近、考えさせられる経験をした。それは、1月24日に新潟県の長岡技術科学大学を訪問した時のことだ。
目的は三上喜貴教授との共同研究の打ち合わせであった。三上教授は元経産官僚。1975年に東京大学工学部を卒業後、数学職で通産省に入職し、1997年に長岡技術科学大学に出向すると、そのまま転籍した。2011年に副学長、2015年に理事に就任している。
専門は社会システム工学で、安全システムの制度設計や規制を研究している。幅広い教養を備えた人物で、『インドの科学者 頭脳大国への道』(岩波科学ライブラリー)や『文字符号の歴史 アジア編』(共立出版)など様々な本を出版している。
私との共同研究は、レセプトデータ(レセプト:患者の受けた保険診療について、医療機関が保険者に請求する医療報酬の明細書)を用いて、わが国における交通事故や労災事故などの不慮の事故の実態調査をすることだ。私は臨床医として助言、およびレセプト調査などに詳しい人物の紹介を求められた。
高専卒業者を対象に
長岡技術科学大学は初めての訪問だった。同大学は1976年に設置された国立大学。学部生・大学院生合わせて2342人が学ぶ。
この大学、幾つか興味深い点がある。まずは、定員が1、 2年次の80人から、3、4年次に390人に増えることだ。三上教授は「高専卒業生を対象にしたカリキュラムが組まれているからです」と説明する。
長岡技術科学大学は「実践的な技術を科学する」(三上教授)ことを目的として、愛知県の豊橋技術科学大学と同時に設立された。いずれも学部が工学部のみで、4年次に約2カ月間の「実務訓練」(いわゆるインターンシップ)を行うことで知られている。
もう1つ、私が驚いたのは国際色が豊かなことだ。長岡駅に迎えにきてくれたのは張坤准教授。中国の河南省出身で、2007年に長岡技術科学大学の修士課程に留学し、その後、日本でキャリアを積んでいる。日本語が流暢で、気配りの行き届いた女性だ。
全学では27カ国から318人の留学生を受け入れている。出身地で多いのはベトナム(106人)、中国(55人)、タイ(30人)だ。三上教授は「ベトナム留学生の数は全国の国立大学で1番」と言う。
長岡とベトナムは交流が盛んで、1月29日の『日本経済新聞』にも「長岡市、ベトナムに熱視線 市長ら訪問」という記事が出ていた。
とはいえ、新潟県全体の人口10万人当たりのベトナム人受け入れ数は89人で、47都道府県中45位。新潟県とベトナムの交流が盛んな訳ではない。長岡に限った話だ。
なぜ、長岡とベトナムの交流が活発なのだろうか。それは、留学生に高い技術を教える長岡技術科学大学が交流を牽引しているからだ。
では、どうしてこの地域に高等教育機関が出来たのだろうか。少しばかり歴史を振り返ってみよう。
田中角栄の存在
長岡と言えば「田中王国」。田中角栄元総理が長岡を含む旧新潟3区に強固な地盤を築き、トップにまで上りつめたことはご存じの通りだ。
長岡技術科学大学の設置が決まったのは1973年。同年にオイルショックがあったものの、田中氏は総理大臣を務め、得意の絶頂にあった。『文藝春秋』が立花隆氏の「田中角栄研究」、児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」を掲載し、田中金脈問題の追及が始まるのは、その翌年の10月のことだ。
それだけに、中央でも地元でも絶大な影響力を誇っていた。田中氏が、長岡技術科学大学の設立に何かしら貢献をしたことは間違いないだろう。ただ、それだけでは同大学が国際交流のハブとして成長できた理由は説明できない。
長岡の民度を育んだもの
私は、この地域の民度の高さに負うところが大きいと考えている。それは、この地が長い年月をかけて育んできたものだ。三上教授が、分かりやすく解説してくれた。
三上教授は東京生まれ。長岡に移ってきて、「ファンになった」と言う。彼が注目するのは、長岡藩主牧野家と東山油田、そして北前船(きたまえぶね)だ。
牧野家は徳川譜代で長岡7万4000石の当主だった。江戸から明治にかけて北海道・大阪間の日本海沿岸を往来した北前船貿易の中核である新潟港を抱え、石高を上回る収入があった。幕府の信頼も厚く、幕末に当主は京都所司代や老中を務める。戊辰戦争では当初、中立を模索したが、最終的には列藩同盟につき、家老・河井継之助を中心に新政府軍を苦しめた。その様子は司馬遼太郎の『峠』に詳しい。
明治に入り、牧野家は領地を没収される。その後、再興を果たすが、その居城である長岡城は戊辰戦争で焼け落ち、本丸の一部と二の丸の南櫓、千手口門しか残らず、再建されなかった。残った部分も士族の救済や小学校の教育費に充てるため売却される。
その後、1898(明治31)年に本丸跡に長岡駅、二の丸跡に後述する宝田石油本社が建てられた。この地は現在、長岡市公会堂、長岡市厚生会館を経て、長岡市役所が入る「シティホールプラザアオーレ長岡」となっている。かつて、ここに長岡城が存在したことを示す遺構は少ない。戊辰戦争で敗れた長岡を象徴する場所である。
通常、このような地域は逼塞する。会津や姫路が典型だ。会津は松平家、姫路は譜代筆頭の酒井家が治め、戊辰戦争では幕府に与した。戦後、それぞれ福島県、兵庫県に編入され、会津日新館、姫路好古堂などの藩校の伝統は途絶する。この地域には現在も国立大学は存在しない。
かつて哲学者の和辻哲郎、民俗学者の柳田国男らの人材を産み出した姫路、山川浩・健次郎らの幕末の志士が輩出した会津は寂れた。ところが、長岡はそうならなかった。なぜだろう。
米百俵で国漢学校を
まずは教育熱心だったことが挙げられる。長岡藩は戊辰戦争で財政が窮乏したものの、支藩の三根山藩から届いた米百俵を売却し、国漢学校を建てた。この話は小泉純一郎氏が総理大臣時代に紹介したため、ご存じの方も多いだろう。
実は、この学校は士族だけでなく、農民や町民にも門戸を開いた。洋語、医学、兵などの5つの学校群に分かれ、洋語の流れを汲む長岡洋学校は、現在の新潟県立長岡高校である。国漢学校自体は廃藩置県のときに柏崎学校の分校とされ、廃止されている。
国漢学校、およびその流れを汲む学校からは、多くの有為な人材が産み出された。連合艦隊司令長官を務めた山本五十六は、その代表だ。ジャーナリストの櫻井よしこ氏、作家の半藤一利氏も、現・県立長岡高校の同窓である。みな、気骨がある。
当日、三上教授との打ち合わせに、長岡赤十字病院救命救急センターの副部長を務める小林和紀医師が同席した。小林医師は県立長岡高校から東京大学医学部に進み、卒業後は故郷の長岡で救急医療に従事している。
小林医師は、学生時代には運動会剣道部(体育会のこと)の主将を務めた。私自身、指導したこともある。三上教授との共同研究において重要な外傷は彼の専門だ。助太刀を頼んだ。
城下町は伝統的に武道が強く、文武両道を誇る進学校が多い。そのうえ国漢学校の伝統が根付く教育の街、長岡。ここで三上教授と小林医師が出会ったのも、縁というものだろう。
余談だが、東京の新宿駅や立川駅構内の「エキナカ」で「ナビタスクリニック」という診療所を展開する久住英二医師も、長岡出身だ。彼は新潟明訓高校から国立新潟大学に進んだ。野球漫画『ドカベン』の舞台・明訓高校は、新潟市出身の作者・水島新司が、新潟明訓高校から名前をとった。
同校は、もとは勉学に励みたいと考えた労働者が公立学校の教師に依頼して、夜間学校として立ち上げたものだ。全国で例をみない学校である。かくの如く、この地は教育熱心で、このような伝統は一朝一夕では築けない。
「石油成金」が愛した「電話」
戊辰戦争で辛酸を舐めた長岡だったが、幸運なこともあった。それは、この地で東山油田が発見されたことだ。1888~1997年まで採掘され、ピークの1900年代初頭には年間5万キロリットルを産出した。
長岡には、1893年(明治26年)に前出の宝田石油株式会社が設立され、長岡だけでなく、秋田や台湾にも製油所を有した。1921(大正10)年には、当時の日本の2大石油会社であった「日本石油」と合併し、それが現在の「JXTGエネルギー」へと連なっている。
当時、「長岡には石油成金が大勢生まれ、相場も盛んだった」(三上教授)という。彼らが「愛用」したのが電話だ。
1899(明治32)年に東京・大阪間に電話が開通したが、それから遅れること7年、1906(明治39)年には長岡に電話交換局が設置される。
長岡は通常の城下町と異なり、武士文化以外に、北前船と東山石油の伝統も引き継いだ。これが、この地に情報と人材をもたらしつづけている。
前出の宝田石油と日本石油の合併を仕掛けたのは、橋本圭三郎(1865~1959)だ。長岡学校から大学予備門、東京帝国大学へと進み、法制局から大蔵省に入り、1911年には事務次官に就任。貴族院議員や農商務次官を歴任後、1916年に故郷の宝田石油の社長に就任し、大鉈を振るった。1926~1944年まで新会社である日本石油の社長を務め、戦後は公職追放にあうものの、社団法人「燃料協会」(現日本エネルギー学会)の会長を務めた。戦前の日本の石油産業を仕切った大物で、長岡を象徴する人物だ。
かつて、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官は、「人間はワインと一緒だ。誰もが生まれ育った環境を愛している。そして、誰もが同じように、自分の先祖が立派な人であって欲しいと願っている」と言った。私たちは、自らが意識しないうちに、故郷の影響を受けている。
北前船の交流地域と重なる
それは組織にも言えるのではないか。長岡技術科学大の入学者の出身地の分布は、興味深い。人口当たりの入学者が多い県は新潟、富山、群馬、秋田、山形、香川、栃木、石川と続く。少ないのは滋賀、埼玉、神奈川、佐賀、福岡だ。首都圏より日本海側、さらに香川から学生が集まっている。これは北前船が交流した地域と重なる。私には、歴史の流れが感じられる。
1月28日、新潟大は5年間で法学部と法科大学院を修了できる「法曹コース」を神戸大と連携して設置するための協定を結んだことを発表した。文科省が2020年度の創設を目指している法曹コースは、学部3年までに必要単位を取得した生徒が、早期卒業して法科大学院(2年)に進める制度だ。
今回の協定の背景には、法科大学院を廃止した新潟大が学生の受け皿として神戸大に協力を求めたという事情もある。新潟大としては、自校の学生募集で神戸大法科大学院への進学をアピールできるメリットもあるだろう。神戸大はすでに鹿児島大とも協定を結び、廃止予定の熊本大とも協議している。
しかし、一見縁のなさそうな新潟と神戸が繋がることに、かつて北前船を介して、人が交流し、移住した名残を、やはり私は感じるのである。
中国が大国化し、日本は変わらざるをえない。西日本は中国からのインバウンドの恩恵を蒙る。問題は東日本だ。歴史的に中国との交流は少ない。地方都市に魅力がなければ、若者は東京に吸い寄せられる。東京一極集中が加速する。
この点で長岡の存在は興味深い。高度技術人材育成を売りに、国内外から優秀な人材を集めている。この地の歴史的な「資産」が、それを可能にしている。人口減少が続くわが国で、東京の強力な「磁力」に抗い、東日本の地方都市が生き残るには、都市の魅力を高めるしかない。そのためには人材育成と交流が重要だ。