NHKディレクターと探検家が大いに語り合う「ノンフィクションと小説の境目はどこにあるのか?」 対談・国分拓×角幡唯介
暗いだけではない「夜」をどう書くか
角幡 テレビは、映像という現実と密接にリンクした素材がありますから、いいですよね。一方で、文章は境が曖昧にならざるをえないですよね。
『極夜行』を書いたときに、「極夜」をどう表現すればいいのかを考えました。現実としての極夜って、はっきり言って暗いだけなんです。そこで僕ひとりが混乱しているだけ。外見的な客観的事実を書くと、「暗いだけでした」で終わってしまいます。
でも、僕は極夜は暗いだけでなく、無秩序なものだと感じていて、それを表現するには自分の主観のなかに反映してくる極夜を書くしかないと覚悟したんです。でも、それは一歩間違えれば「妄想」じゃないかと思ったり、葛藤がありました。それでも、星が語りかけてくるとか、闇夜を照らす月のやり口が10年前の新聞記者時代に夢中になったホステスの手口と同じだとか、そういう書き方をしないと極夜の混乱ぶりを書き表せないのではないかと思いました。つまり、事実とはどこにあるのかという問題です。経験世界だけにある客観的な事実だけでは、極夜という現象の本質的なところまでは描けないのではないか。極夜の極夜的な本質に到達するには、自分の内部に立ちあがってくる星や月の姿を語り、主観の力で、暗いだけという表面的な客観事実を突き破るしかないんじゃないかと思いました。でも一方で、それはノンフィクションという文芸ジャンルに許された表現手法を超えているんじゃないかという気もしました。
国分 月や星のたとえ話はあの地でしか書けないリアリティを感じたけどなぁ。
角幡 まあ、僕としても極夜世界の本質を伝えられれば、それがノンフィクションだろうが、その枠を超えていようが、どっちでもよかったので、その意味では国分さんと同じかもしれません。
ちなみに、『ノモレ』のあとがきで、「分かりえないことについても挑まねばならなかった」という謎めいたひと言がありますね。あれは何のことですか。
国分 僕が絶対的に分かりえないのは、イゾラドの内面です。イゾラド本人達からの話は聞けていないのですが、文明化した「元イゾラド」に、イゾラドだった頃の話を聞く機会が何度かありました。イゾラドの内面は、それを基に書きました。その箇所を想像による、まったくのフィクションにするという考えもあったのかもしれませんが、僕にはできませんでした。ですがそれは、ノンフィクションに対するある種の「倫理感」からではなく、単に自分にはフィクションを書く力がないと思ったからです。
角幡 2012年に沢木耕太郎さんと対談したとき、ノンフィクションについて「自分がないと思っていることをあるように書くのはダメだ」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
国分 番組の制作を通して、20年来、沢木さんとおつきあいさせていただいていますが、『ノモレ』は沢木さんのノンフィクションの定義をはずれてしまったのではないかな。「ないと思っていること」ではないですが、「あるかないか、分からないこと」は書きましたから。
角幡 そうなんですね。
国分 あとがきに「物語」という言葉を使ったのですが、川があってそこに分断された何かと、つながっているものと両方ある。それは、「物語」として書かないと伝わらない。通常の形のノンフィクションでは描きたい世界に到達できない。少なくとも僕は、そう思いました。
角幡 小説とは違って、ノンフィクションには、事実が持つ圧倒的な迫力があります。一方で、事実が足枷になることがありますよね。事実だけでは、それを超える真実には到達できないとでも言ったら良いのでしょうか。僕は、真実に到達することは芸術しかできないと思うんです。具体的には文学や絵画が相当するのではないでしょうか。『ノモレ』を読んで、国分さんは真実に到達したいんだろうなと思ったんです。
国分 そんな大それたことを意識はしていないのですが、したいかしたくないかと問われれば、したいんだと思います。でも、『極夜行』は真実の領域に到達していると思いましたよ。
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