【特別対談】細谷雄一×篠田英朗「憲法と日米安保を問い直す」(3)
細谷雄一:イラク戦争の後に、あるアメリカ人の外交専門家が、『ザ・サイレンス・オブ・ラショナル・センター』というおもしろい本を書いています。これによると、「ラショナル・センター」、すなわち「合理的な中道派の人たち」は、世の中で起きている問題についてほとんど発言しない。発言すればたたかれることがわかっていますから、発言しないことが合理的なんですね。合理的で理性的な人は、世の中にいろんなおかしいこと、間違っていることがあるとわかってはいますが、批判されたくないから沈黙する。これを続けていたら大変なことになる、というのがこの本の警鐘で、私はタイトルも含め、非常に強い印象を受けた。
これは日本でも起きていると思います。私の周りの「合理的」な国際政治学者はだいたい、私みたいな政治的な発言はあまり行わない。黙っているほうがたたかれなくていいですからね。安保法制のとき、私は何名かの友人から、自分はたたかれたくないから発言しないけど、細谷さんはたたかれても大丈夫だろうからどんどん発言してください、という励ましをたくさんいただいたんです。それで頑張ろうと思って発言していたんですが、やっぱり沈黙が巨大になることは怖いことだと思うんですね。
戦前もそうですし、ナチスもそうだった。発言するのはたたかれるし、大変なデメリットがあるので、やはり黙っているほうが合理的な判断かもしれない。だけれども、やっぱり何かを語らなくてはいけない。そのときに、篠田さんは基本的にストレートに語りますが、私はそれを歴史というパッケージに包んで、行間でその問題意識を共感していただけるような、非常に大きな物語をつくろうと思った。
これが私なりの抵抗で、つまりツイッターとかユーチューブとか、みんな140字以内とか3分以内でしか情報が吸収できなくなる中で、やはりある程度の厚み、ボリュームがあるものでないと伝えられないことがある。これは村上春樹さんがよく言っていますけども。やはり読んだ人の心に少しでも爪跡を残したい。何か考えるきっかけになったり、何かそれに対して反応を起こさせたい。そんな本を書きたいと思って、前篇と後篇の2作組となって、気づいたら分厚くなってしまう。
私、話が長いことで悪名高いんですけども、書くのも長い。話が長いのは有害かもしれませんが、書くのが長いのは伝わる量が多いということで、私はこの本で重要なメッセージ、私が言いたいことを伝えられたという、満足感があったんですね。
ですから、これを読んでいただいて、篠田さんのように共感を示して頂けるような書評を書いていただいたということで、すごくうれしく思っています。
「やりたいことだけやる」は自主独立ではない
細谷:その篠田さんは、先ほどの『ザ・サイレンス・オブ・ラショナル・センター』になぞらえれば、もちろん中道的な、あるいはアリストテレス的な中庸という意味での「センター」にいて、また合理的な思考をなさるという意味でも「ラショナル」で、さらには比較的「サイレンス」に近くて、平和構築の研究と実務にかかわってきたと思うのですけども、今は大きな声でいろんな疑問とか問題、違和感に対して発言をする。これは合理的ではないんじゃないんですか。
篠田英朗:細谷さんは感受性が強いと思うんですけど、私は基本的に鈍い人間なので、自分がいじめられているとか、知らないところで何か言われているというようなことはあまりわかってないんですね。
ただ合理的か否かという話でいえば、自分の人生を「俺、人生それなりに頑張ったな」という形で終えていくためには、合理性というものにも若干のニュアンスが出てくるわけです。多分それは、閉塞感を感じてしまったところで一概に黙り続けていても、確かにたたかれないのかもしれないけど、つらいですよね、それはそれで。どこかでガス抜きみたいなものをするのもある種の合理性があるので、先ほど申し上げたように40代の後半になってきたので、これぐらい言ってもいいかなということを多少言うぐらいは、私の人生のマネジメントとしては結構合理的だ、というだけのことです。全然心配していただく必要はないということです。
合理性ということで言えば、自主独立の話と絡めたいと思うのですが、細谷さんの本が扱っている歴史の話を見ると現代にも通じるものがあって、中でも一番わかりやすいのは、米国との関係ですよね。
2018年の今でも、嫌米派とか従米主義だとか、米国の顔を見ては日本のことを見直したり、嫌いな人の悪口を言うような言説がたくさんありますね。なぜそうなのか。我々は米国と戦争もしたし、その後占領もあったので大変な関係があることはもちろん知っていて、突き詰めれば詰めるほど、それが大変な問題だったということがわかる。この本を読んでわかるわけです。
そこで自主独立ということですが、一切他人とかかわりを持たず、自分のやりたいことだけやるというのがその本旨だと言ったら、それは小学生レベルの考え方でしょうということになる。いろいろな人間関係、あるいは国家で言えば国際関係のダイナミズムの中で日本のあり方を考える、というのが自主独立の普通の考え方であるとすると、そこで重要になるのはそれぞれの利益、価値観に加えて力、能力なんですね。これで合意しているんだけど、実はうちには力が足りないとか、できそうにないんだけどうまくアレンジすると意外とできるかもしれない、ということです。
米国との関係で自らの能力を推しはかる
篠田:自主独立は、他人に影響されない意味での自主独立と、ある程度自分がやりたいことを達成していくという意味での自主独立があると思うんです。
つまり能力を合理的に発展させ、ある種の達成を果たしたかどうかも独立性だと思うんです。そういう達成感を持てたかどうかと考えた時、日本という国にとっては米国との関係が、自分の能力や力の限界を推しはかるものすごくわかりやすい基準なんです。米国を批判しようが褒めようが、どうしても日本という国の能力の発揮方法を、米国との関係で推しはかることはやむを得ない。これはやはり歴史的な裏づけのあることなのかなというのは、ここ2、3年、昔の日本人がしゃべったり書いたりしたことをいろいろ見ていてすごく思うことです。そして今現在の日本人がしゃべっていることを見ても、ああやはり同じなんだな、と思えます。
細谷さんの本では、ご自身がヨーロッパがご専門ですから、米国だけが国際社会じゃない、日本があまりにも米国のことを気にし過ぎている、と複合的な視点を出している。実は米国自身も自分の言いたいことだけを言っている、ドラえもんに出てくるジャイアンみたいな存在ではなく、ちゃんと国際関係を分析しながら自分の利益を追求しているので、米国を理解するためにも米国を超えた国際社会を見なきゃいけないということは書かれていると思います。
表裏一体の「憲法9条」「日米安保」
篠田:私は『集団的自衛権の思想史』という本、私にとっては日本のことを書いた初めての単著だったんですが、書くにあたってどういう概念構成がいいのかいろいろ考えました。結局自分なりに整理して思ったのは、日本の戦後の国体というのは表側が憲法9条、裏側に日米安保があるということ。でもそれは両者が矛盾したり、接合していない関係にあるということではなく、まさしく表裏一体の関係にあるということでした。
憲法9条にこだわる憲法学者も、結局は米国のことが気になって仕方がない。8月革命を起こして国民主権を握ったというのを突き詰めれば、とにかくアメリカ人に憲法の最初の草案を書いてもらったことが悔しい、という気持ちがあります。憲法学者にとっては、自分が書いた草案がごみ箱に丸めて捨てられた。そしてアメリカ人が書いたこの憲法をずっと講義しながら自分の人生を送っていかなければならない。それが、腹の底では悔しかったと思うんです。それに何とか落とし前をつけないと、今後講義などできない。そうやって苦闘しながら憲法9条にこだわって、これをアメリカ人が介在しない形で説明する方法をいろいろ生み出すというような作業があったんでしょう。憲法9条と日米安保が表裏一体のものとして戦後の日本の国家体制をつくり出しているということを『集団的自衛権の思想史』の本の最初に書いた。
「アゴラ」という、私のブログを転載してくださっているインターネットサイトの主催者は池田信夫さんという方なんですが、彼は丸山眞男の評伝を書いた。「篠田さんの本を読んで触発されて書いたんですよ」と言ってくれたんです。というのも、私が今お話しした表の国体と裏の国体はどうなっているのかということについて、池田さんは丸山眞男を題材にして考えてみたくなったわけです。
つまり、この表裏一体の枠組み自体はそう簡単には変わらないということなんです。どんなにアメリカのことを褒めようがけなそうが、安倍首相が従米主義だろうが何だろうが、日本という国が持っている運命的なもの、それはなかなか変わらない。
たとえばそもそも、黒船を送り込んできたのはアメリカ人ですよね。では彼らはなぜそんなことをしたのか。太平洋を船で横断できるようになって、日米が地政学的に隣国になったからです。そこから大きな歴史の展開が始まった。
そしてその後の苦闘の結果、石原莞爾の言う「最終戦争としての決勝戦」が必要となって太平洋戦争を戦い、日本は決勝戦で負けてしまった。そこで今度は潔く新しい国際主義をつくろうという考え方のもとにいろんな外交政策ができて、実は日本国憲法もそういう考え方の中からできたんだ、と今考えています。(つづく)
※この対談は、2018年9月27日に行われた細谷雄一著『戦後史の解放Ⅱ 自主独立とは何か』(新潮選書)刊行記念イベントを採録したものです。全4回でお届けします。