東京国立博物館「顔真卿」初来日で起きた「中台大批判」に答える

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 上野の東京国立博物館(東博)で、特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が開かれている。日本でも顔真卿(がんしんけい/709~785)の名前を聞いたことがある人は少なくないだろう。中国史のなかで1、2を争うと目される唐代の書家で、その「天下第二の行書(楷書を崩したもの)」と呼ばれる名筆「祭姪文稿」(さいてつぶんこう)が台北・國立故宮博物院から貸し出されたのだ。

 会期は1月16日から2月24日までを予定しており、中国文化に親しんでいる人は特に見逃したくない展示である。

 台北故宮が収蔵する「祭姪文稿」は、顔真卿が有名な「安史の乱」で惨殺された従兄の末子の死を嘆いて書いたもので、憤りと悲嘆にあふれた感情のこもった筆致は、書としても、顔真卿の人となりを体現する作品としても、極めて高い水準にある。しかも真筆。複製ではない。

 台北故宮ですら過去に3度だけの展示というのだから、これが初めて日本に貸し出されるというのは、本来ならば諸手を挙げて歓迎すべき国際文化交流であった。

問題とされた2点

 ところが今回、「祭姪文稿」の展示に関して、中国や台湾で大きな批判を呼んでいる。

 中国で注目を集めた理由は、保守派の新聞『環球時報』が批判的な報道を行ったためだ(「我们质问日本如何保护颜真卿真迹,对方改口再改口!」)。

 その報道を含めて、中国では大きく分けて2つの点が問題とされた。1つは、日本の東博が「祭姪文稿」への防護措置をきちんと講じているのかという点と、もう1つは、「祭姪文稿」のような古い時代の「国宝級」の重要な文物を海外に貸し出すことは問題ではないのか、という点だ。

 これは日本人からすると、いささか唐突感のある問題提起かもしれない。

 しかし、愛国的感情を伴った中国の文化ナショナリズムを甘く見てはいけない。文化財は、容易に「民族の屈辱」を想起させる。清朝末期、英仏連合軍から破壊された北京・円明園やそこから奪われた十二支像のケースがいい例である。

「特別な防護措置は取らない」

 この問題の発端は、台湾で野党・国民党の立法委員が、日本展示に疑問を投げかけたことだった。その批判は、現在の民進党政権が日本に甘い「媚日」であるから貴重な国宝級の「祭姪文稿」を貸し出しているのではないか、という内容である。

 一方、中国においては、台湾の民進党政権のことを基本的に快く思わないうえ、日本に対する潜在的な反感があるため、国民党の批判が強い共感を呼んだようで、ネット界でくすぶり続けていた。

 そこに大きく火をつけたのが、開催直前に報じられた『環球時報』の記事だった。同紙の記者が東博に電話をかけて取材したところ、「祭姪文稿」に対して特別な防護措置は取らない、と回答したという。その点をもって、『環球時報』は「日本は祭姪文稿の展示に特別な防護措置を取らない」と批判的に報じた。 

 この件は中国でかなりインパクトがあったようで、故宮の本を中国でも出版している(『ふたつの故宮博物院』新潮社・中国語版)私にも複数の中国メディアから取材依頼があった。いちいち答えているのは手間がかかるので、『大家』というネットメディアに、日本の専門家の立場として、「どのように理性的に顔真卿『祭姪文稿』の日本展示を見るべきか」という一文を発表し、自分の見解を書いている。

半ば揚げ足取り

 そもそも東博側の回答の真意は、すでに特別な防護措置を取っている海外からの重要文化財に対して、さらに別種の防護措置は取らない、ということであったと思われる。想像するに、質問を受けた広報担当の人物は、半ば揚げ足を取ろうと構えて電話をしてきた『環球時報』の意図を十分に理解しないまま、不用意にそう答えてしまったのではないか。

 このときもしも東博が「ほかの貴重な文化財と同様に、今回も万全の防護措置を取っているので、問題はありません」とでも回答していればよかったのかもしれない。

 だが、考えてみれば、海外からの貴重な文物に対して、博物館が特別な防護措置を講じるのは当たり前のことだ。ただ、中国メディアを含めた海外メディアの取材には、日本とは問題意識や立場が異なるという前提で慎重な受け答えに徹するのが、パブリックリレーションズの「イロハ」の「イ」でもある。

 東博は、日本で最大、最高レベルの博物館で、海外との文化交流の経験も極めて豊富だ。さらに2012年1~2月、日中国交正常化40周年記念特別展「北京故宮博物院200選」を開催し、中国第一画と称される北宋・張択端「清明上河図」を受け入れている。「清明上河図」の価値は顔真卿「祭姪文稿」と同等、あるいはそれ以上である。

批判は明らかに無理筋

 その点を考えると、中国自ら「清明上河図」を貸し出しておいて、「祭姪文稿」を台湾から出したことを批判するのは筋が通らない。だからこそ、「当時、何か問題があれば北京故宮から提起されていたはずだが、何も問題がなかった以上、東京国立博物館は十分な防護措置の能力を持っている、ということになる」と、前出の『大家』への寄稿文で中国読者向けに指摘させてもらった。

 台湾側での「祭姪文稿」日本貸し出しに対する批判も、正直、理屈に通らないところが多い。そもそも、2014年に台北故宮の日本展特別展「台北 國立故宮博物院―神品至宝―」を開催しており、その際には、「祭姪文稿」と同レベルの書・蘇軾「行書黄州寒食詩巻」も貸し出されている。国宝級の海外貸し出しをもって民進党を批判するならば、2014年当時の執政党である国民党も同様に批判されなければならない。

 また、台湾では、国民党の立法委員が、今回の顔真卿展のポスターに台北故宮の名前がなかったと指摘した。2014年の日本展のときに台北故宮の正式名称「國立故宮博物院」から「國立」の2文字が抜けていて、大問題に発展した。そのことが念頭にあったのだろう(2014年8月3日「『國立問題』その後:台湾総統夫人の仕切り直し訪日の意味」参照)。

 ところが、今回はポスターに小さな文字で「國立故宮博物院」とちゃんと書かれていた。今回の展示で顔真卿の作品など数点を貸し出した台北故宮は協力団体の1つにすぎず、表記の文字が小さいのはやむを得ない。

 何も私は東博のことを弁護したいわけではない。対応に落ち度があったときは批判していい。台北故宮展の名称問題では東博の対応を批判したこともある。しかし、今回の中国・台湾の批判は明らかに無理筋であった。

政治問題化するリスク

 ただ、こうした各国で「国宝」と位置付けられるような貴重な文物を日本で展示するには、慎重かつ鋭敏な海外世論対応が必要になる場合もあることを今回の教訓として記憶しておくべきだろう。

 各国同士が貴重な文化財を貸し出す文化交流は、世界で非常に活発化している。輸送や展示において、文物を危険に晒さない方法は日々進歩を遂げている。芸術愛好家が多い日本では、中国文化に限らず、欧米やアジアから文物を招聘して盛んに海外品の展示が行われており、貴重な文物の安全確保に対する技術的な水準については海外の一歩先を進んでいる。そうした点を対外的にまずアピールすることも重要である。

 日本に展示品を貸し出せば、メディアがスポンサーとなって観覧客を動員できる。日本の美術展はレンタル料も高く、経済的なメリットがある。交換という形で、日本側からの貸し出しも期待できる。だからこそ各国の美術館・博物館は日本での展示に前向きで、日本側も定期的に海外展を催している。

 しかし、世界でナショナリズムが高まりを見せているなか、文化というテーマは大衆感情が刺激されやすく、今回のような大型展のたびに政治問題化してしまうリスクが潜んでいる。特に中国文物が絡んだ海外展は、日本の主催者側もより細心の注意を払った広報体制が必要になるだろう。

野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、「台湾とは何か」(ちくま新書)。訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。最新刊は「タイワニーズ 故郷喪失者の物語」(小学館)。公式HPは https://nojimatsuyoshi.com。

Foresight 2019年1月30日掲載

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