韓国「禁輸」石巻名物「ホヤ」復活を目指す「若手漁師」らの奮闘

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「見下して煙突なき町の夕まぐれ ホヤは人間以前の香りする」

 歌人の土屋文明が宮城県の三陸の町を訪ねた折、特産のホヤの味に太古の生き物を思い浮かべた――という58年前の歌だ(『青南集』所収)。文明は海のない群馬県の出身で、東京で暮らした人。その「未知なる珍味」というホヤの印象を、今も全国の消費者が抱いているのではないか。

 そうした現状に、地元の生産者らは焦りを募らせている。大消費地の韓国が東京電力福島第1原子力発電所の事故後、東北など8県の水産物を輸入禁止にし、出荷の大半を担った宮城のホヤは販路を失って久しい。ホヤを知らない消費者に味をどう伝え、「うまい」と食べてもらえるか。若手の漁師たち、彼らを応援する料理店主ら、地元の熱い発信が始まっている。 

希少な天然ホヤ産地

「ホヤをもっと知ってほしい。それには食べてもらうこと」

 石巻市のホヤ生産者、渥美政雄さん(41)はマイクを手に熱っぽく語った。

「(原発事故から)7年余り、韓国に出荷できなくなって、地元の消費者のニーズを広げたいと願い、そのきっかけづくりの会を開きました。ホヤを食べておいしいなと思ったら、近所のスーパーで買ってもらえれば」

 渥美さんは、石巻市牡鹿半島の鮫浦湾を生業の場とする若手漁業者からなる県漁協「(やがわ)支所青年部」の会長だ。鮫浦湾は日本でも希少なホヤの天然種苗採取・養殖地で、その生産者が自ら消費者とつながり、「ホヤを知ろう、食べよう」と活動している。

 目玉イベントの「ホヤナイト」を催したのは2018年9月半ばの夜。渥美さんは市内のスペイン料理店「ロングビーチハウス」で、20人余りの参加者に語り続けた。

「今夜は仲間の漁師たちが皆さんと一緒に過ごします。ホヤのこと、漁師のこと、何でも聞いてみてください」

 この店は、東日本大震災の津波で家を失った住民と東京の復興支援NPOが手を組んで、住宅の跡地に建設。やはり東京出身でボランティアの活動後、定住した大野由紀子さんが店長を務め、しゃれたバーやゲストハウスも備える交流の場所だ。イベントの参加者たちの前に、珍しい料理が運ばれてきた。

 ホヤを食材にしたカルパッチョ、パエリア、アヒージョ、フリット、オムレツ、タパスなど、大野さんらが腕を振るったメニューの数々だ。

五味が揃う「海のパイナップル」

 ホヤは「海のパイナップル」と呼ばれ、赤茶色の殻の下にとろりとした黄色の身が詰まっている。筆者は以前、ホヤを水揚げした船上で、青年部の漁師に殻を割ってもらい、潮のしたたる新鮮な身をごちそうになった。最初に不思議な渋味があり、口の中でさっと甘味に変わった。

 ホヤには「甘味、塩味、酸味、苦味、旨味」の「五味」がすべてあると言われ、独特の深い磯の風味が魅力だ。ただ、その風貌、個性の強さから、苦手とする人もまた多かろう。

 この夜提供されたホヤは、青年部メンバーらが水揚げしてきたばかりの新鮮な品。スパイスやニンニクの効いたスペイン料理に濃厚な味が溶け込み、アヒージョなどは癖になりそうなうまさだった。

 地元の参加者たちも、「ホヤ酢や刺身しか食べたことがなかった。まるで違う料理で、びっくりするくらいうまい」と感想を述べた。長野市から東北へ新婚旅行中というカップルは、石巻でイベントの情報を知って訪れ、笑顔で「見るのも食べるのも初めて。こんなにおいしいと知らなかった」と語った。

7割が韓国へ輸出されていた

 渥美さんは、鮫浦湾の祝浜でホヤ、ホテタの養殖と漁業を営んできた。2011年3月11日の大津波で集落の7戸が全壊し、養殖施設も流出。がれきの山から自ら復旧作業に立ち上がった。

 救いは、避難生活の中で近隣の若い漁師たちとの交流が深まったことだった。海に生きる漁業者はみな、自らの経験と工夫で生きる「一国一城の主」。しかし、同じゼロからの再出発という境遇が、新しい仲間の結束を固めたという。

「巨大な災害を前に何もできなかった無力感、悔しさを共有し、復興も個々の力では限界だと感じていた。もともと同じ小中学校の先輩後輩の縁。毎晩のように仮設住宅で集まり、『ここで、これからどう生きるか』という目標を飲みながら語り合っていたら、自ずと1つに集約されていった」

 ホヤの生育には適した海洋環境とともに時間も必要で、3~4年も掛かる。鮫浦湾は、全国でも希少なホヤの天然種苗産地。ホヤは土屋文明の歌のように最も原始的な海産動物(尾索動物亜門ホヤ綱)で、年末年始のころに放卵し、無数の幼生が海中に漂う。生産者は、養殖の原盤となるカキ殻を長い束にし、数千本も海に垂らして幼生を付着させ、小さな赤い種苗を辛抱強く成長させる。

 ホタテが稚貝から1年、カキが種苗から2年で水揚げ、出荷されるのに比べ、ホヤの生産者ははるかに長く待たねばならなかった。

 渥美さんら鮫浦湾の漁師たちが当初、期待したのは韓国への出荷再開だった。県内のホヤ生産量は震災前年の2010年に約9000トン(三陸~北海道の産地全体の9割)に上り、海鮮料理やキムチの具材に好む韓国へ7割が輸出されていた。

「禁輸措置」で7600トン廃棄

 ところが、思いもかけぬ事態が起きたのは2013年7月。100キロ余り南の福島第1原発で汚染水の海洋流出が明るみに出た。風評が福島県内外に広まり、2カ月後には韓国政府が、東北の被災県を含む東日本8県産の水産物輸入を禁止。ホヤ生産者の「復興」への頼みの綱も断たれてしまった。

「ホヤ処分へ 涙の水揚げ」。地元紙の『河北新報』にこんな見出しが載ったのは、2014年6月末。渥美さんら生産者は大勢のボランティアの助けも借り、養殖再開から3年となる翌2015年春に、水揚げ・出荷を復活させるはずだった。

 しかし、販路を失い、行き場のなくなったホヤと、新たに水揚げ時期を迎えた分が計約1万3000トンにも達し、県漁協がやむなく焼却処分に踏み切ったのだ。地元を中心に懸命な販売先確保の努力が行われ、処分は7600トンに留まったが、筆者はこの時、「毎朝水揚げして、出荷分と同じくらいの量を処分のための回収トラックに載せている。やり切れない気持ちだ」と漏らす漁師の声を聞いた。

 苦境を行動で打開しようと、渥美さんが仲間たちと「谷川支所青年部」を旗揚げしたのは、2016年11月。天然種苗採取の季節を前に、鮫浦湾の谷川浜の施設に14人が集い、カキ殻をロープでくくり長い束にする初の共同作業をした(先に紹介した、湾内につるしてホヤの幼生を定着させる原盤)。

 筆者が取材したメンバーには、震災後に移った石巻の市街地から浜に通う決意をした人、また震災後に地元の石巻に帰って漁業を始めた人もいる。復興に立ち上がった渥美さんの背中を見つめ、高校を出て海の仕事を選んだ長男・雄斐さん(22)の姿もあった。

「湾内に、青年部として1つの水域を借りることができた。俺たち個々のホヤづくりだけでなく、独自の養殖試験をやるんだ」と、渥美さんは当時語った。復興の希望を託したホヤの廃棄という苦渋を乗りこえ、「俺たちがまずやることは、国内のどこに出しても喜ばれる、品質、大きさ、味の良いホヤづくり。その最高の条件をさまざまに試したい」

消費者を育てる体験学習

 以前なら漁業者が必要としなかった潜水士の国家資格も、青年部有志で勉強し、11人が合格した(当初は7人)。津波で地形が変わったり、魚介類をはぐくむ藻場が減ったりした鮫浦湾の環境を自分たちで調べ、「宝の海」を将来へ守っていくという決意だった。

 青年部は、宮城県や東北大学、県漁協から潜水調査などへの協力依頼を受け、早速忙しくなった。震災後に湾内で進んだ「磯焼け」の原因を探る藻場の分布調査や、ホヤの幼生の生態調査、それまで水揚げの対象ではなかったナマコの素潜り漁と増殖の試験などが活動に加わった。

「ナマコは高級食材として珍重されている。販売収入を青年部の資金にして、自前の資材や道具をそろえたり、ホヤを広く売り込む活動に充てたりしている」と、渥美さんは言う。 中でも大切にしている活動が、将来のホヤの消費者を育てる体験学習の受け入れだ。

 2018年10月下旬、谷川漁港を訪ねたのは、近隣の3つの小学校の5、6年生13人と父母、教師ら。青年部が用意したカキ殻の山で、一緒にホヤ養殖の原盤作りをした。

 コツと根気の要る作業だが、子どもたちは青年部のメンバーたちを手本に40分ほどで仕上げ、3隻の漁船に分乗して鮫浦湾へ。ホヤの養殖試験の水域に着くと、小さな手いっぱいに原盤の束を抱え、次々と海中に下ろした。

 ホヤの生態と、それを育てる漁師の活動を学び、最後は水揚げしたてのホヤを試食。青年部のメンバーがナイフで切り分けた新鮮な切り身に、小学生たちは競って手を出した。さすが地元の浜の子ども、ホヤの味を知っている。

「中でも、1番うまいところがどこか分かる? それは、『へそ』だよ」と、渥美さん。解説を聞くと、ホヤの殻が海中の岩に根付いた部分の内側の身をへそという。筆者も一切れいただくと、こりこりと歯ごたえが良く、とりわけ濃厚で甘く、癖になりそうな味だった。漁師直伝の食べ方も体験学習ならでは。

 渥美さんは、「この子たちが大人になって、日本のどこに暮らしても、家庭の味としてホヤを食べてほしい」と言う。

商品化された「蒸しホヤ」

 青年部のメンバーたちは、宮城県庁のロビーで催される「みやぎ水産の日」などの直売イベントにも出向き、消費者との交流も兼ねてホヤを売り込んでいる。

 その先頭に立つのが、阿部誠二さん(35)。鮫浦湾にある鮫浦漁港前の自宅が津波で流され、高台の移転地に建った新居で暮らしながら、父・忠雄さん(68)とホヤ養殖、沿岸のヒラメ漁などを営んでいる。

 阿部さんとは、2014年に震災後の初水揚げを取材した時から縁を重ねる。当時から、彼はこんな危機感を訴えてきた。

「震災前はうちでも、水揚げするホヤの7~8割を九州などの業者が港に来て買い付け、水槽に入れて韓国に輸出していた。ホヤは足が早いので(傷みやすく)、保冷パックで2日と持たず、築地にも多く出ない。だから、味が遠くまで伝わらない」(2015年9月7日「復興遅れに抗い『蒸しホヤ』に懸ける:東日本大震災から4年半」参照)

 日本の消費者の大半がホヤの味を知らないという現実があり、その原因がホヤの傷みやすさ、保存の難しさ(鮮度が落ちるとアンモニア臭などが強まる)にあった。

 ならば、加工してはどうか。阿部さんはそう着想し、なじみの水産加工業者らと組んで2015年6月、鮫浦湾発の「蒸しホヤ」の商品化を実現させた。

 ホヤを殻のままぶつ切りにし、内臓を抜いて酒で蒸し、塩で味を調える。もともと地元の家庭料理の保存食。仮設住宅で阿部さんの奥さんが作る蒸しホヤを、外国人を含め何百人ものボランティアが「うまい」と頬張った。「それまでは首都圏でホヤを説明することすら難しかったが、新しい経験がホヤの味への自信になった」

 蒸しホヤをはじめ、おつまみ系の加工商品がその後、さまざま売り出されるようになり、みやぎ生協やイオンなど県内のスーパーがホヤの特売企画を展開したり、仙台を中心にホヤの料理を出す居酒屋が増えたり、自治体では東松島市が九州の友好都市、福岡県豊前市の水産イベントで初めてホヤの試食会を催したり、消費拡大のさまざまな努力が広がりを見せている。

 しかし、県漁協によれば、国内で消費されているのはまだ4000~5000トンほどだ。

養殖をやめる人も……

 2018年10月半ば、阿部さんの作業場に1台のワゴン車が止まった。石巻の市街地に和食店「四季食彩いまむら」を開いて5年になる友人、今村正輝さん(37)だった。千葉県出身で大学卒業後に料理人を志し、震災後、石巻の浜や商店街で復興応援のボランティア活動を重ね、定住を決めて多彩な魚介を生かす店をつくった。

 その年の6月に結婚したのを機に、夫婦で日本一周キャラバンに出発。ワゴン車に地元の食材を積んで、各地のシェフ仲間や消費者に石巻をPRして回った。石巻の名はどこでも知らぬ人はなく、「震災は大変だったね」と言われた。腕を振るった料理も好評だったという。

 だが、「ホヤは、びっくりするくらい知られていない」と今村さん。「殻付きのホヤを見て、『どうやって食べるものなの?』と戸惑う人が多かった」。

 今はホヤの焼却処分はせず、生産者の自主的な生産、出荷調整へと県漁協の方針も変わったが、水揚げ時期の来たホヤが過剰なまま、養殖場で眠っている状況は続く。「三陸の他の町では、ホヤを諦めて養殖をやめる人が出てきた」と、阿部さんは憂い顔だった。

 韓国による水産物輸入禁止も5年を超えた。世界貿易機関(WTO)の紛争処理小委員会は昨年、日本政府の訴えに対し、禁輸の措置は「不当な差別」と是正勧告をする報告書をまとめたが、韓国が上訴したため、係争がどこまで長引くのか分からない。

 宮城、岩手の三陸沿岸では、ホヤ、カキとともに養殖漁業を支えるホタテガイも昨年、原因不明の貝毒が広範囲で発生して出荷が規制され、「史上最悪」の不漁が2年続いた。震災からの復興すら、漁師たちから遠のくばかりだ。「ホヤの普及に1 日も早く突破口を開かないと……」と、阿部さんらの焦りも募る。

塩竃で評判の「ほやほや屋」

「ほやほや屋」という名前の店が評判になっている、と阿部さんから聞いていた。メニューは文字通りの「ホヤ尽くし」だという。かまぼこなど練り物の生産が県内一で、やはり津波の被災地となった塩竃市にある。

 訪ねたのは2018年12月半ば。カラフルな看板を掲げた小さな店に入ると、早速、店主の佐藤文行さん(59)が「ホヤの唐揚げ」を勧めてくれた。

「ホヤの切り身に片栗粉を付けて揚げただけ。何の下味もいらない」との言葉通り、自然な塩味がほどよく、カキやエビのフライよりも濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。「私が初めて創作したホヤ料理」と言い、2017年11月に開店して以来、1番人気の品だという。

 お品書きに驚いた。いずれもホヤの切り身をたっぷり使う塩ラーメン、塩焼きそば、天ぷらそば、串焼き、チーズ春巻き、韓国風「ほやチャンジャ」、「ほやニラ炒め」、「ほやチーズフォンデュ」――。

 冬の目玉は、仙台名物の「セリ鍋」をアレンジした「ほやしゃぶ」だった。煮たった昆布のだし汁の鍋でホヤの切り身をゆがき、セリとともに味わうしゃぶしゃぶだ。

冷凍保存で弱点克服

 かまぼこ製造会社の社長だった佐藤さんは、経営を息子さんに譲って「ほやほや屋」を開いたという。きっかけは3年前。県内産ホヤの処分に頭を抱えていた県漁協の関係者から、「ホヤを練り製品の原料に使えないだろうか」と相談を受けた。

 さまざまに試作をしたが、味の個性の強さが白身魚のすり身の風味を圧倒し、揚げ物にしても油にホヤのにおいが移り、「どうやってもホヤの味になる。脇役ではなく、メインにしか使えない」という結果になった。

 ホヤの現状に心を痛める仲間らと組んで、まずは食べ方のアンケートを行うと、「刺身か酢の物、たまに蒸しホヤ」が90%以上だった。「生食中心に限界があった。ホヤの旬は梅雨のころだが、冬も含めて通年で食べられないと、消費は伸びない」と佐藤さんは見た。

 ただ、問題は「ふん」の処理で、時間を置くと臭みが体内に回る。自ら浜に通って現場の人々と知恵を絞り、「生産者が水揚げした旬の時期のホヤを、すぐに水産加工場で処理して洗い、最高の鮮度のまま冷凍する」との方法を考案した。それを大量に保存すれば、一年中うまいホヤを料理できる――というホヤの弱点克服のアイデアだった。

 試作した唐揚げ、しゃぶしゃぶが仲間内で大好評。「新しいホヤの食べ方を提案し、消費拡大を助ける店を出そう」と思い立った。

ホヤのファンを全国に

「ホヤを救いたい。理不尽に廃棄されるような事態が続けば、漁師は生きられない。私は、味の伝道師の活動をしている。新しい料理を食べて、皆さんもうまさを知ってほしい」

 1月半ばの休日、佐藤さんは仙台市内のイベントスペースで「ホヤと落語の会」を催し、こう挨拶した。初笑いを楽しみ、自慢のホヤ料理の数々を食べる企画に、横浜、いわきなど遠来の客30人が参加。取材した筆者も、念願の「ほやしゃぶ」を日本酒で味わった。「ワインと寄り添う料理」というフレンチ風の「ホヤのガーリックバターソース」も出され、「これからはワインでおしゃれにホヤを。もうエスカルゴを食べている場合じゃない」との気炎に、参加者たちは沸いた。

 こうしたイベントに加え、佐藤さんは昨年から「ほやラバーズ倶楽部」という会も運営している。全国から会員を募集し、浜の水揚げ体験ツアー、東京、大阪など各地での試食会への参加、「むきホヤ、蒸しホヤ」のプレゼントなどを特典に、ファンを増やそうと動いている。「宮城が誇れる食材。地元や全国の料理店、家庭に広めたい」と、佐藤さん。

 ホヤ復活へ、産地の人々の熱い思いはブームを呼べるか。

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

Foresight 2019年1月29日掲載

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