「週刊新潮」が出発点だった――兼高かおるさん、世界の旅
ツーリストライターとしての原点となった世界一周早回り。そのキッカケは映画「80日間世界一周」の「80時間で(世界を)一周するときが必ず訪れる」の言葉だったという。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、兼高かおるさんを偲ぶ。
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兼高(かねたか)かおるさんは海外旅行がまだ一般的ではない時代から、現地取材を通じて世界の文化や生活を丁寧に紹介したさきがけである。自画自賛のようで恐縮だが、「週刊新潮」は彼女が世に出るきっかけに大きな役割を果たしている。
兼高さんは1958年に定期旅客便を乗り継いでの世界一周早回り記録に挑もうとした。しかし肝心の旅費がない。計画を携えて訪ねてきた兼高さんに、「週刊新潮」は協力したのだった。結果、73時間9分35秒の新記録で一躍有名になる。
週刊新潮の58年7月21日号には、「兼高嬢は何時間何分何秒で世界を一周するか」という賞金30万円の豪華なクイズも出題された。記録更新の快挙は大きな反響を呼ぶ。そして、翌59年には「兼高かおる世界の旅」の前身となる番組が始まった。
長年縁のあった、ワールド航空サービス会長の菊間潤吾さんは振り返る。
「好奇心がとにかく旺盛で、どんどん質問していきます。訪れた先の人々の価値観や文化に真正面から向き合って敬意を示すので、相手も兼高さんを信頼して心を開いたのです」
28年、神戸生まれ。54年、米国のロサンゼルス市立大学に留学後、世界一周早回りでチャンスをつかむ。
「世界の旅」の取材陣は、兼高さんとカメラマンと助手の3人だけ。現地に着いてから兼高さんが交渉を始める。この地のタブーは何ですかとまず聞いた。状況判断が的確で度胸もある。出された食べ物は歓迎の気持ちと必ず口にする。ケネディ大統領、チャールズ皇太子、画家のダリなど著名人の懐に飛び込むのもうまい。長旅から戻ると編集やナレーションにかかりきり。番組が生活の全てだった。
兼高さんを取材したことがある作家の小中陽太郎さんは思い起こす。
「現代の語り部と言えるほど上品な語り口が良かった。美人で語学力があっても嫌みにならないのは、心の温かさと番組に没頭している姿が伝わったからでしょう」
90年、1586回をもって31年続いた番組は終わる。
兼高さんを慕っていた人は多い。歌人・齋藤茂吉の妻、齋藤輝子さんもそのひとり。孫にあたるエッセイストの齋藤由香さんが『猛女と呼ばれた淑女』(新潮社刊)で輝子さんの生き方を描いた際には、兼高さんにインタビューをしている。
「取材に快く応じて下さいました。祖母も旅が大好きでした。兼高さんが南極点に行ったと知ると、祖母が『南極はどうやって行ったらいいの?』と聞いてきたことや、旅のスタイルが似ていたので気が合ったことなどを話して下さいました。いつも毅然とされ、気高く、エレガントで美しい方でした」(齋藤由香さん)
85年には、持ち帰った品や資料を寄贈して淡路島に「兼高かおる旅の資料館」が開設された。同館の支配人、清水浩嗣さんは言う。
「無知だからできたこともあると謙虚に話していました。2017年2月の訪問が最後です。番組のスポンサーだったパンアメリカン航空(パンナム)機の模型を懐かしそうに眺め、感謝の念が伝わってきましたね」
パンナムで「世界の旅」を支えたのは、デビッド・ジョーンズさん(05年他界)。大相撲千秋楽の「ヒョー、ショー、ジョー」の声で親しまれた人だ。
淡路島を気に入った兼高さんは、島内にある看護医療大学の学生に返済義務のない奨学金を給付している。
優れた企画旅行を表彰するツアーグランプリの審査委員長を務め、昨年9月の表彰式にも姿を見せた。
「義理堅くて責任感があるのです。引き受けた以上、必ず役割を果たされました。気品のあるおしゃれをされ、凜とした姿が目に焼きついています」(菊間さん)
1月5日、心不全のため90歳で逝去。
「世界の旅」はCS放送のTBSチャンネルで現在も再放送されている。