ドイツ兵捕虜たちが“感謝”した徳島「板東俘虜収容所」 称賛される人道的な扱い
記憶遺産へ共同申請
近藤氏によれば、捕虜が徳島工業学校(現徳島科学技術高等学校)を訪問した記録や、地元の中学で器械体操を教えた、あるいは地元企業の富田製薬の牧舎を立てたといった記録も残されているそうだ。
そんな板東俘虜収容所をユネスコの「世界の記憶」にするべく、現在、徳島県と鳴門市は活動している。写真などの資料がその対象だ。
「名古屋など他の収容所でも、板東のような例はあったと思います。しかしながら板東は史跡の保存状態がよく、昨年は跡地が国の史跡に指定されました。また、関連資料も多く残っています」
“記憶遺産”登録へむけた取り組みは4年前にスタートした。が、2年前に杉原千畝のリストの登録が叶わなかったように、ハードルは高い。ユネスコへの推薦は日本国内の委員会から行われるが、候補になれるのは2件だけ。しかも推薦は2年に1度である。
「千畝リストのときには40件の申し出があったそうですから、確率的にはなかなか難しく……。そこで、4者での国際共同申請で挑戦することになったのです」
先述のとおり鳴門市とリューネブルク市は姉妹都市となっているが、徳島県とニーダーザクセン州も07年に友好提携を結んでいる。こちらも板東俘虜収容所が結んだ縁だ。
「2年前にはリューネブルク市の市長、ニーダーザクセン州の首相が徳島を訪れ、申請に向けた調印式も行われました。国際共同申請であれば、国内の委員会を通り越して、ユネスコに直接申請ができるんです。ただし、これまでのルールでは、ですが……。現在、ユネスコは(オードレ)アズレさんが事務局長に就き、制度改革の真っ最中。動き出すのは早くても今年の10月からと見られています」
記憶遺産を目指すならば、まずは日本内での周知から――ということで、渋谷での展覧会は行われた。3月末からは京都でも開催される予定だ。
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