「いだてん」モデル・金栗四三の数奇な運命 “消えた日本人”になった理由

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円谷も、瀬古も、高橋尚子も

 金栗は旧制玉名中学(現熊本県立玉名高)から、東京高等師範に進んだが、成績優秀な人だったという。その頭脳に、大きな経験を加えたのは、間違いなくオリンピックである。世界と互角に戦えなかったところから、自らを、日本を、いかにして鍛えるかに心を砕くようになったのである。金栗が取り入れたトレーニング法が、後年、その成果をもたらしたものもあるのだ。

 今から100年近くも前に、金栗は高地トレーニングを取り入れているのである。当時、どこからそういう発想が湧いたのか、それとも系統だった理論書があったのか、不思議である。あるいは専門だった地理学が何か関係しているのか。今でこそ普通になっているが、当時の金栗にも高地で鍛え、酸素を運搬する赤血球を増やそうという考えがあったのだろうか。心肺機能の鍛錬には富士登山競争も提案、自らもこれに挑んでいる。

 耐暑トレーニングを本格化させたのも金栗だと言われている。オリンピックのマラソンが行われるのは夏季である。暑さを克服できなければ、まず勝ち目はない。真夏の房総半島の金栗トレは有名である。

 金栗は、1964年東京五輪で銅メダルを得た円谷幸吉をかわいがり、そのよき相談相手でもあったという。

 全盛期にあっ80年モスクワ五輪が日本のボイコットのため霧散した瀬古利彦は、金栗が発案した箱根駅伝と、創立に尽力した福岡国際マラソンをバネに、世界にのし上がった選手だった。

 2000年シドニー五輪で、日本女性初の陸上金メダリストとなった高橋尚子は、小出義雄監督が採用した高地トレーニングで頂点に登り詰めたのである。

 金栗の思いが結実するには、たっぷり時間がかかったのだ。

 玉名郡和水町には金栗の生家が残る。そして、隣の玉名市には記念碑と墓があり、近くの実家は娘の池部政子さん(89)が守る。

 その彼女について、

「今は足腰が少し弱って入院中ですが、元気ですよ」

 と近所の人は言う。また、

「多くのランナーや、マラソンファンがお参りにやって来るので、お孫さんが久留米から時々、掃除に見えてます」

 とも話した。

 2月に行われた第1回熊本城マラソンには、東京生まれながら、曾祖父の郷里に“Uターン”して地元の銀行員となった曾孫の青年が42・195キロにチャレンジした。

 1983年11月13日、金栗は92歳の天寿を全うした。その孫、曾孫、玄孫は数多いという。
「消えた日本人」金栗四三とスウェーデンの百年物語。7月14日、ゆかりの人として、誰かがストックホルムの地で金栗、苦闘の足跡を踏みしめる、いや噛みしめるのだろう。

週刊新潮 2012年5月3・10号掲載

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