「いだてん」モデル・金栗四三の数奇な運命 “消えた日本人”になった理由
「日本マラソンの父」
しかし、完結したはずのストーリーは終わっていなかった。さらにそれから45年の今年、スウェーデンは新たな“粋”を準備していたのである。
金栗が「消えた日」から、ちょうど100年目のその日、7月14日に冒頭に記したオリンピック100周年記念ストックホルム・マラソン大会を挙行する。コースは正規の42・195キロとなるが、ほぼ当時のルートをたどるものである。そして、ここにまた新たな仕掛けである。発着点となるスタジアムか、あるいはコースのどこかに五輪マラソンの記念碑を建立するという。そこには、いわば「金栗記念碑」も計画されている可能性がある。
日本オリンピック委員会は、詳細をまだ明らかにしていないが、
「(記念碑が)実現したら、大変うれしいことです」
と、話す。金栗ゆかりの人たちへの招待があることも認めているから、スウェーデンが、何らかのパフォーマンスを用意しているのは間違いないだろう。(編集部注:現在、コース上に記念銘板が設置されている)
なお「金栗四三」の読み方で、われわれが親しんでいるのは「かなぐり・しぞう」である。しかし時々、そうでない人、あるいは文献もある。「かなくり・しぞう」「かなぐり・しそう」「かなくり・しそう」である。生まれ故郷の熊本県玉名郡和水町(なごみまち)教育課では、
「どれが正しく、どれが正しくないとは言えません。それぞれの呼び方で親しんでいただければよいと思います」
と、おおらかに話す。
しかし、厳密に言えば、金栗四三の名は長年にわたって“通称”とも言うべきものだったことは、あまり知られていない。
ストックホルム五輪に出場した時、確かにこの人は金栗四三だった。だが、1916年の第6回ベルリン大会(第1次世界大戦で中止)を挟んで出場した、2度目の第7回アントワープ五輪(16位)、3度目の第8回パリ五輪(途中棄権)は、正確に言うなら池部四三での出場である。
金栗はストックホルムから2年後の1914年、同じ玉名郡小田村(現玉名市小田)の池部家に養子に入り、直後に結婚した。だから、以後は池部姓を名乗るのが本来である。しかし、池部四三を知る人は少ない。なぜか? 聞くところによると、養子先の計らいが大きかった。養母が、
「あなたは、金栗四三で世に出た。だから、これからも金栗で生きて行くことは構いません」
と話したというのである。
さらに、あまり知られていない事実がある。おそらくそれは、金栗が「日本マラソンの父」と呼ばれ、慕われてきたことから生じた誤解である。金栗は、東京女子師範(現お茶の水女子大)はじめ、いくつかの学校で教壇に立つかたわら、マラソン界の後進の育成に尽力した。金栗がストックホルムで履いた日本独自の「マラソン足袋」は改良を重ねて「カナグリ足袋」として、戦後もしばらくランナーたちの健脚を支えた。最近では、全国区的な人気を誇る「箱根駅伝」の発案者として、再びその名がクローズアップされるようにもなった。そこから見えてくるのは、マラソンの指導者としての顔である。だが、金栗が東京高等師範で学び、教壇で教えていたのは、実は「地理学」であった。
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