「いだてん」モデル・金栗四三の数奇な運命 “消えた日本人”になった理由

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世界で最も遅いマラソン記録

 日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員にして、母校、高等師範の校長でもあった嘉納治五郎団長は落胆する。だが、金栗自身の落ち込みは当然、その比ではなかった。

 金栗はもちろん、嘉納にしても密かに金メダルを狙っての参戦だったのだ。前年11月に、羽田運動場(現在の羽田空港)―東神奈川間で行われた予選会(25マイル)で、金栗は2時間32分45秒をマークしたが、これは当時の25マイルマラソンの世界記録2時間59分45秒を27分もしのぐ「世界新記録」だったのである。

 しかし、しょせん“井の中の蛙”であった。スポーツに関する国際的な情報が乏しかった時代に、ぶっつけ本番で臨んだレースだったのだ。

 それにしても、極東の島国から北欧のスウェーデンは遠すぎた。7月6日の開会式を目指して、2人の選手と大森兵蔵監督が東京・新橋を発(た)ったのは5月16日。翌17日に敦賀から当時の貨客船・鳳山丸でウラジオストックヘ。ここからシベリア鉄道で大陸を延々と西に向かいモスクワを目指す。さらに船に乗り換えストックホルムへ入った。到着したのは6月2日で、18日間の長旅だった。ライト兄弟が有人飛行に成功したのは1903年。それからわずか9年後、空路など思いも寄らなかった時代なのである。この間、三島の短距離にも、ましてや金栗の長距離に必要不可欠なトレーニングの場は皆無に等しかったのだ。

 北欧の街に米の飯は望むべくもない。レース当日、金栗を競技場まで送る車がどうした手違いか現れず、走って駆けつけたという話も伝わるが、真偽のほどは分からない。

 しかし、いずれにしても過酷を極めたレースだったことははっきりしている。68人中、完走したのはちょうど半分の34人。筆者はこれまで、少なくとも100回以上にわたってフルマラソンを現場取材したが、完走率50%のレースなどなかった。大半が90%以上である。現在と違って、水分補給が常識化せず、むしろ非常識とされた時代だったことが最大の原因ではないかと考えている。

 オリンピックのマラソンで死者第1号が出たのも、実はこのストックホルム大会である。金栗とどちらが先に倒れたかは判然としないが、ポルトガルのフランシスコ・ラザロが同じように日射病に襲われ、脱水症状を引き起こした。翌日、病院で息を引き取る。21歳の若さだった。

 さて、レースの結果に消沈した金栗は“無言”でストックホルムを後にする。このことが、そもそも「消えた日本人」の発端となった。「棄権届」のない金栗は行方不明の扱いとなり、時間は流れ続けた。

 そこから生まれたのが「世界で最も遅いマラソンの記録」である。1967年3月、スウェーデン五輪委員会は、ストックホルム大会55周年記念の式典を企画し、金栗を現地に招待する。そして、粋な計らいを見せた。メーンスタジアムで20メートルほどを走らせ、ゴールテープを切らせたのである。そして、場内放送が高らかに宣言する。

「日本の金栗、ゴールイン! 記録は54年8カ月6日5時間32分20秒3。これをもって、第5回ストックホルム・オリンピックの全日程を終了します」

 この時、金栗四三、75歳。素晴らしいスピーチで応えた。

「長い道中でした。途中で孫が5人も出来ました」

 これが「消えた日本人」と、「世界で最も遅いマラソン記録」達成の顛末である。

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