「いだてん」モデル・金栗四三の数奇な運命 “消えた日本人”になった理由
現在放送中のNHK大河「いだてん」で中村勘九郎が演じるのは、日本マラソンの父こと金栗四三である。日本から初めて五輪に出場した金栗は、スウェーデンで「消えた日本人」となり、そのおよそ56年後に“復活”。スウェーデンとの絆を我が国にもたらした存在でもあるのだ。
元中日新聞東京本社編集委員でスポーツジャーナリストの満薗文博氏は、ドラマ化に先駆けること2012年に、金栗の「数奇な100年」を追った物語を週刊新潮に寄せている。(以下は12年5月3・10日号掲載のもの)
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スウェーデンの首都、ストックホルムの1~2月の平均最高気温はマイナス1度、最低気温はマイナス5度である。2012年が明けて、しばらくたった頃、この寒い国から、東京・渋谷の日本オリンピック委員会(JOC)にホットな招待状が届いた。
かいつまんで言えば、100年前の1912(明治45)年に挙行された第5回ストックホルム・オリンピックを記念する式典を6月に催す、ついては貴国からも列席していただけないか、というスウェーデン・オリンピック委員会からのお誘いである。このオリンピックこそ、日本が初めて参加した大会である。JOCはもちろん、トップである竹田恒和会長の式典出席を快諾した。
だが、話はここで終わらない。文面にはこれとは別にもう一つ、招待の意味が込められていたのである。「消えた日本人」ゆかりの人たちをお招きしたいというものである。
文面には、6月の式典とは別に、ストックホルムは7月14日に100周年記念マラソン大会を実施する計画を持つ旨が記されていた。そこに「消えた日本人」が、実に100年の時を越えてよみがえるのである。
1世紀前、日本が初五輪に送り込んだのは、陸上短距離の三島弥彦(東京帝国大学=現東大)と、マラソンの金栗四三(東京高等師範学校=現筑波大学)の2名であった。三島は100、200メートルとも予選通過を果たせず、2人だけで走った400メートル予選で2着となって準決勝進出となったが、これを棄権した。疲労困憊がその理由と言われている。
さて、金栗はどうだったか? 「消えた日本人」となったのである。再びストックホルムの気候に話を戻す。
現地の7月の平均最高気温は22度、最低気温は13度である。いかにも、清々しい北欧の夏が頭に浮かんでくる。私もかつて、夏にこの地を訪れたことがあるが、ひどく暑かったという記憶はない。だが、100年前の7月は違った。とりわけ、マラソンの行われた14日は、異常気象に見舞われていたのである。多くの資料、文献に当たったが、いずれも猛暑、酷暑の記述が散見されるのである。気温は30度以上、中には40度にまで達したと書かれたものもある。
68人のランナーがスタートしたのは午後1時半。暑さもピークに達していたはずだ。はじめ、欧米選手の速い飛び出しに戸惑いながらも金栗は食らい付く。だが、猛暑、坂道、随所に現れる石畳、砂ぼこりに体力は徐々に削がれ、20歳の金栗の意識はもうろうとして来る。どこまで走ったのだろう、やがて気を失って倒れ込んでしまう。日射病だった。まだ、マラソンがおよそ40キロを走る種目とされていた時代、この日のレースは25マイル(約40・225キロ〕で争われたが、金栗が倒れた地点には諸説あって、17キロ、25キロ、26・7キロ、32キロなどがある。
そして、金栗が意識を取り戻したのは翌日朝になってからだ。見かねたコース近くの農家が彼を自宅で介抱してくれていたのである。
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