自由で開かれたインド太平洋構想

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「自由で開かれたインド太平洋戦略」という言葉は、安倍晋三首相が2016年8月、ケニアで開かれた第6回アフリカ開発会議(TICAD Ⅵ)で初めて使ったものである。今では、アメリカもこれを主張するようになっている。それゆえ、これを米中対立の一環と捉え、また、中国の「一帯一路」と対抗するものと捉えている人が多い。私はそうでないということを、述べたいと思う。

「戦略」というよりも「構想」

 第1に、「自由で開かれたインド太平洋」というのは、戦略ではない。戦略とは、より上位の目的を実現するための方法であり、政策の体系である。「自由で開かれたインド太平洋」というのは、むしろ、多くの政策の上位にくる目的ないしヴィジョンである。最近、政府は自由で開かれたインド太平洋「構想」と言い換えるようになったが、これは戦略に付随する軍事的意味合いを払拭するためだと言う人がいる。だが、元来、構想の方が正しいと私は考える。

 日本の生存と発展のために、自由で開かれたインド太平洋は絶対に必要である。中国やロシアやアメリカにとって、インド太平洋が自由でなくても開かれていなくても、なんとか生存はできるだろう。英仏独にとっても同様である。しかし、日本にとっては死活的に重要な課題である。

 日本にとって太平洋がいかに重要性であるかは、あらためて言うまでもないだろう。それを巡って日本はアメリカと戦い、敗れ、戦後はアメリカと結ぶことによって、太平洋における自由を確保した。

 インドから中東に至る海路も、明治以来、重要なルートだった。日本の商船や商社がインド、パキスタンに進出したのは、相当に古い。日英同盟は、日本にとって開かれたインド洋を確保する手段でもあった。戦後、インド洋の自由は、やはりアメリカの圧倒的な力で維持できるようになった。

 日本にとって死活的に重要な中東からの原油の供給に不安が生じたのは、1973年の石油危機においてであった。それは比較的短期に収束したが、日本は以後、中東問題を外交の主要課題の1つとして意識せざるをえなくなった。その後、イラン革命(1978~79年)、イラン・イラク戦争(1980~88年)において、日本は石油権益の放棄や在留邦人の引き揚げなどにおいて、大きな影響を受けたが、これらの問題の解決のために何が出来るかについては、イラン・イラク戦争当時、掃海艇派遣が検討された以外には、大きな争点とはならなかった(中曽根康弘首相が意欲を示したが、後藤田正晴官房長官が強く反対して実現しなかったといわれる)。

 しかし、1990~91年の湾岸危機・戦争においては、日本は秩序回復のためにいかなる貢献をすべきか、できるかについて、激しい議論がなされた。結局、日本は130億ドルという巨額の資金を負担したものの、国際社会からは、あまり評価されなかった。そして戦闘が終わった1991年5月になって掃海艇を派遣したが、そのことの方が、むしろ評価された。

 その10年後の2001年9月、アメリカで同時多発テロが勃発し、アメリカがアフガニスタンのアルカイダ攻撃に踏み切ると、テロ対策特措法を制定し、米軍などに対するインド洋における給油などの支援活動を開始した(2010年まで続いた)。さらに2003年、アメリカがイラク攻撃に踏み切ると、日本はアメリカとの連帯のため、イラクの復興支援を目的として、自衛隊をイラクに派遣するに至った。またソマリア沖で海賊の活動が活発化すると、これに対処するため、2009年から海上自衛隊の艦船を派遣し、ジブチに基地を持つようになった。事実として、中東からインド洋に至る海洋の安定のため、日本は徐々に活動を広げていたのである。

インドが重要な存在に

 この間、インド洋地域において生じていた重要な変化は、インドの覚醒である。冷戦当時は基本的に社会主義であり、開放的でなかったインドが、自由化を始めたことである。ただ、インドの核実験実施とそれに対する日本の制裁によって、日印関係の強化はすぐには進まなかった。森喜朗内閣によって、日印21世紀賢人委員会(Japan-India Eminent Persons’ Group)が開かれたのは2001年のことであって、筆者はそれに参加することができたが、両国における期待の大きさと、現実とのギャップの大きさが印象的であった。

 2005年には、日本はインド、ブラジル、ドイツとともに、国連安全保障理事会の改革を目指し、激しい運動を展開した。常任理事国の増加を含む決議案の提出(5月)まで進んだが、8月、運動は挫折した。この運動の中で、注目すべき変化の1つは、アメリカが、新しい常任理事国としては日本しか認めないという立場から、インドも認めて良いという立場に変化したことだった。

 その頃から、日本、インド、アメリカ、ときにオーストラリアを加えたシンポジウムや研究会が増えた。2つの海洋の連結性を強調する論文も増えた。

 2008年、G20サミットが設立されたとき、それは、従来のG7(主要国首脳会議)にEU(欧州連合)が加わり、さらに新たに12の国がメンバーだったが、その中に、インドネシア、オーストラリア、インド、南アフリカというインド洋を囲む国が4カ国も入っていた。さらに、サウジアラビアもすぐ近くである(他の7カ国は、ロシア、中国、韓国、ブラジル、アルゼンチン、メキシコ、トルコ)。これは、世界におけるインド洋の重要性を示す事実であった。

中国の脅威

 他方で、自由で開かれたインド太平洋に対する脅威も登場した。中国である。中国の人民解放軍高官が、太平洋は十分広いので、東はアメリカ、西は中国が責任を持てばよいという発言をしたのは、2007年5月のことであった。

 さらに、中国は南シナ海において、フィリピン、ベトナム、マレーシアなどと領土紛争がある地域において、九段線を主張し、多くの島で埋め立てと軍事基地の建設を進めた。

 これに対しフィリピンは2013年、仲裁裁判所に九段線の無効確認を訴えたが、中国は裁判に参加することを拒否した。そして2016年、裁判所がフィリピンの訴えを認め、中国の九段線の主張には根拠がないと判断すると、中国は、判決は紙切れだと言い、これを無視したのみならず、中国に同調するよう周辺国に圧力をかけた。中国を恐れた国々は、この判決に言及することを控えることが多かった。

 法というものは、力によって支えられなければ無力である。中国に対してそうした力を示しうるのはアメリカだけだった。しかしアメリカは、ただちに反論しなかった。中国の海軍高官の発言に対し、太平洋は公海であって、その自由は法によって保障されるものであり、アメリカを含め、特定の国が特別の責任や権利を持つべきものではないと、ただちに明言すべきだった。南シナ海の埋め立てにおいても、ただちに抗議、批判すべきだった。ある国の問題ある行動に対し、沈黙することは、黙認を意味する。バラク・オバマ政権は、アジア回帰を主張したが、実態は伴っていなかった。

「一帯一路」の登場

 中国はさらに周辺地域へのインフラ建設を通じた勢力拡大を進めるようになり、これを「一帯一路」という名でよぶようになった。一帯一路構想は、最初は2014年11月、北京で開かれた中国・アラブ諸国協力フォーラム閣僚級会合で、習近平国家主席が打ち出したもののようである。一帯は中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパに至るシルクロード経済ベルト、一路は東南アジア、スリランカ、アラビア半島沿岸部からアフリカ東岸を結ぶ「21世紀海上シルクロード」を指し、インフラ整備、貿易促進、資金投資を促進する計画であり、それぞれ習近平が2013年にカザフスタンのナザルバエフ大学とインドネシア議会で演説したものであった。

 世界の各地でインフラ需要が旺盛であることは確かである。しかし一帯一路は、巨大なヴィジョンというよりは、中国の政治的影響力拡大の意図と、中国企業の投資意欲と、中国金融機関の投融資意欲と、鉄などの過剰な製品を抱えた中国企業の輸出意欲や資源』確保意欲とがまじりあったものである。われわれはこれを過大評価することも、過小評価することもなく、個々のプロジェクトに即して冷静に考えるべきである。

 他方で、日本で安倍内閣が「質の高いインフラパートナーシップ」を打ち出したのは、2015年5月のことであった。日本はODA(政府開発援助)による東南アジアにおけるインフラ整備には長い実績があり、これをADB(アジア開発銀行)と連携してさらに進めようとするものであった。質の高いインフラとは、一見値段が高いが、使いやすく、長持ちし、環境に優しく、災害の備えにもなって、長期的には安上がりであるとして、世界とくにアジアで宣伝を始めた。

日中のインフラ受注合戦

 その頃、大きな関心を集めていたのは、インドネシアのジャカルタ-バンドン間の新幹線建設計画だった。日本と中国が受注をめぐって激しく争い、2015年夏、中国がこれを受注することに成功したことに、日本の多くの関係者はショックを受けた。

 私はまだJICA(国際協力機構)の理事長ではなかったが、この新幹線計画をやや冷ややかな目で見ていた。新幹線がもっとも効果的なのは500キロあまりの距離で、豊かな人が大勢の住んでいるところである。この点で、4000万人が住む東京―名古屋―大阪ほど適したところは、世界にも例がないのである。これに近いのは中国のいくつかの区間であろう。それより短ければ建設・運営コストに比して、時間短縮効果が小さい。それより長ければ飛行機に適わない。ジャカルタからバンドンまでは170キロほどであって、新幹線には短すぎるのである。

 その後、私は2015年10月からJICAの理事長になったが、やはりインフラが大きな課題だった。

 インドにおけるムンバイ-アーメダバード間の新幹線を日本が受注することが決まったのは2015年12月のことだった。これは約1兆8000億円と見込まれ、融資の金利は0.1%、返済期間は50年で15年据え置き、という破格のものである。JICAは独立行政法人として、最終的には当然ながら政府(主務大臣)の方針に従う。

 マレーシアのクアラルンプールとシンガポールを結ぶ新幹線をめぐって、やはり日中が争い、中国の優位と見られたのを、日本が巻き返そうとしていた。また、タイでもやはり新幹線の建設をめぐって、日中の競争がみられた。

 ここで整理をしておくと、日本の企業が持つインフラ建設技術は、ハイスペック(高精度、高機能)であって、現地の必要性を上回り、その結果、価格が高くなる傾向がある。また、OECD(経済協力開発機構)のDAC(Development Assistance Committee:開発援助委員会)のルールにより、極めて譲許性の高い融資条件(低利、長期)である場合を除き、原則として日本の融資はuntied(紐なし)でなければならない。つまり日本が融資しても、事業の受注者については国際競争入札で選定されなければならず、日本の借款によって中国の企業が受注して、現地から感謝されるということがありうるのである。また、国際的な基準に則り環境社会配慮にも十分な注意が求められる。その結果、環境・社会面への影響確認などに時間がかかり、その間、事業費も上昇することが多い。

 他方で中国の場合、OECDのメンバーではないので、紐付きの借款が可能であり、自国の企業に受注させることに何の問題もない。環境社会配慮についても、十分な配慮がなされているとは言えず、その分、期間を短縮し、価格の上昇も抑えられる(ただし、最近では環境社会配慮に関するガイドラインの整備を始めているようである)。現実には、中国国内では土地収用の苦労などほとんどないが、外国では用地取得は簡単ではなく、中国も苦労しており、ジャカルタ-バンドンの高速鉄道も用地取得で遅れている。

 中国の一帯一路構想は、すでに述べたとおり、周辺国におけるインフラ建設プロジェクトの集積である。それがしかも中国の影響力拡大と結びついている。

 スリランカのハンバントタ港における借款など、資金を貸し付け、返済ができないと、その代わりに港の運営権を99年獲得することとなった。これはかつて19世紀から20世紀にかけて欧米列強や日本が中国に対して展開した帝国主義外交を思い出させるものであった。しかしこれには地元から反対が起こり、中国は譲歩して、会社を2つにわけ、排他性を弱めることで対応した。

 中国の借款の利率は、いろいろなケースがあるので一概に言えないが、スリランカ向けのプロジェクト融資に関し、インドの戦略研究家ブレーマ・チェラニー氏は中国の『環球時報』に対して「日本によるプロジェクトの金利は0.5%に過ぎないのに、中国は6.3%」と答えている。

 ともあれ日本としては、日本の製品や技術や規格を使わせたいならば、受け取り国にとって有利な低利借款を用意することとなる。それでも、民主主義の副作用とでもいうべきだろうか、首相や大統領が、現実的な工期を無視して、ぜひとも自分の任期中に仕上げてほしいというケースが多い。その結果、質の低いものを選択した場合は、あとで出来の悪いインフラや、累積債務に苦しむことがある。ただ、中国の技術もどんどん向上していることは確かである。

JICAの「インフラ4原則」

 2016年になって、私はJICAの中で、インフラ4原則を定め、重視するよう指示した。それは第1に、そのプロジェクトがその国の発展に役立つこと、第2に、その国と日本との関係強化に役立つこと、第3に、日本の経済や企業にとって利益があるもの、第4に、JICAの財務に過大な負担とならないもの、の4つである。

 これによって見れば、前述の4つの高速鉄道事業に関しては、課題となりうる点があるように思われた。

 2017年には、JICAが協力してきたカンボジアのシアヌークビル港の株式が一部公開されることになった。株式公開は一部であるとは言え、将来、さらに拡大されることになる。この時、中国が港湾の運営権に関心を示しているとの情報があり、仮に中国が運営権を握れば、将来的に排他的な運営となる可能性もあったであろう。同港の企業価値向上に貢献することは、カンボジア及びメコン地域の経済活性化と連結性向上に資するということで、日本は海外投融資による出資に踏み切った。JICAが出資することにより、日本が有する港湾運営の知見が今後の運営に活かされることになる。2017年6月のことであった。

 安倍首相は同じ2017年6月の演説で、一帯一路に含まれる個々のプロジェクトに対して日本が協力するための4条件を提示した。すなわち、そのインフラが万人に利用できるよう開かれ、透明で公正な調達によって整備され、プロジェクトに経済性があり、相手国の債務が返済可能で財政の健全性が損なわれないこと、である。私がJICA内部で指示した原則もこれに整合的であり、好ましいものだと思った。たまたまその時、中国の程永華大使の隣に座っていたのだが、彼も好意的な反応だった。中国も文明大国を自称しているのだから、反対する理由はないはずである。

 2017年9月、国連総会に参加するため、ニューヨークに行った私は、あるアメリカ政府高官と会った。先方から会いたいと行ってきたのだが、秋に予定されていたドナルド・トランプ大統領の日本を含むアジア訪問の準備だったと思う。その時中国の借款のあり方に触れ、ハンバントタ港の話をしたら、彼は全く知らなかった。それどころか、OECDのuntied(紐なし)ルールや、環境・社会配慮についても何も知らず、中国はそのいずれにも拘束されず、はなはだ有利な位置にあるということも、知らなかった。私の説明を聞いて、それは大変だと彼は言い、中国もメンバーであるG20で、中国を含んだ途上国援助の原則を定めたらどうかという私の提案にも賛成してくれた。

対決色を強めるアメリカ

 2017年12月、アメリカは新しい国家安全保障戦略を定め、中国に対する厳しい政策を打ち出した。

 中国の途上国援助のやり方についても、アメリカは新帝国主義という言葉を使って批判しはじめた。私以外にも同様の説得をした人がいたに違いない。レックス・ティラーソン国務長官(当時)は、2018年2月1日、中南米訪問を前にテキサスの大学で講演し、「中南米は、自国民の利益だけを追求する帝国主義的な大国を必要としていない」として、中国を批判した。

 マイク・ポンペオ国務長官は2018年7月30日、全米商工会議所主催のインド太平洋ビジネスフォーラムで演説し、自由で開かれたインド太平洋の重要性を強調し、そのため3分野での資金イニシアティブを発表した。

 2018年10月3日、アメリカ議会はUnited States International Development Finance Corporation(USIDFC)の設立を定める法律を可決した。これまで低迷してきた「海外民間投資公社(OPIC)」を改組し、開かれたインド太平洋のために巨額の投融資を行うという方向を定めている。7月のポンペオ演説では1億ドルという少額のコミットしかしていなかったが、USIDFCについては数百億ドルという金額が言われている。

 10月4日には、有名なマイク・ペンス副大統領の演説が行われている。そこでペンスは、中国に対するエンゲイジメント政策は誤りだったと総括し、厳しい全面的な対決政策を打ち出した。第2の冷戦だとして世界を驚かせたものである。

 12月には、アメリカの中国批判はアフリカにまで及んだ。大統領補佐官(国家安全保障問題担当)のジョン・ボルトンは、中国が過剰な融資によってザンビアとジブチを苦境に追い込んでいるということを批判した。

 このような、近年におけるトランプ政権による急激な中国批判は、ジョージ・ケナンの有名な言葉、すなわち、民主主義は平和を愛するが、戦うときは徹底的に戦う(Democracy is peace-loving, but fights in anger.)という言葉を思い出させる。反応は遅かったが、対決色は厳しい。

 こうした文脈では、2018年10月の安倍首相の訪中とそこで示された協力姿勢は、2017年7月の安倍原則に沿うものだったが、米中の厳しい対立の文脈においては、日本は中国に接近すべきではないという人がいる。

 しかし、永遠の同盟国というものはない。日本とアメリカの利害が一致しないことはしばしばある。アメリカの中国に対する厳しい批判は、副大統領や国務長官や補佐官によるものであって、トランプ大統領自身によるものは少ない。トランプ大統領は取引の人である。利益のために突然、中国と手を握ることもありえないことではない。日本はそうした可能性にも備えておかなくてはならない。

 中国は日本の隣国である。その膨張を牽制するために、アメリカとの協力は絶対に必要である。しかし、無用の衝突は避ける方が望ましい。一帯一路に対する条件付き協力は、具体的な条件によるけれども、望ましいものである。そして中国の一帯一路の危険な部分を無害化し、中国が開かれたインド太平洋構想を支持する方向に誘導すべきである。

信頼関係、自由、法の支配を

 自由で開かれたインド太平洋構想を支える政策には、いくつか興味深いものがある。

 たとえば、海上保安分野における協力である。JICAはインドネシア、マレーシア、フィリピン、ベトナムなどの海上保安組織の職員を日本に招き、半年を東京の政策研究大学院大学、残りを広島県呉市の海上保安大学校で学ぶことになっている。

 フィリピンは約7000、インドネシアは約1万3000の島からなりたっている。コースト・ガードなしに、密輸を取り締まることも海賊をとらえることも難しい。こうした国々の主権を盛り立てることが、同時に、中国の膨張に対する抑止力にもなる。

 インフラ建設も、そうした友好国の発展を支えるためのものであるべきであり(私の第1原則)、必ずしも日本企業による受注にこだわることなく、協力すべきことがあると考える。

 日本の援助は、長年、西洋諸国と異なるアプローチで知られている。それは、上から目線で援助するというのでなく、相手の立場にたって、何が途上国の利益になるか一緒に考え、実行しているという視線である。JICAは、国際協力機構との名称が象徴的に示している通り、援助や支援(aidあるいはassistance)よりも、協力(cooperation)との姿勢を重視してきた。

 このアプローチの根底にあるのは相互信頼である。私が2017年7月、「信頼で世界をつなぐ」という言葉をJICAのヴィジョンとして選んだのは、この歴史、伝統を忘れないようにしたいと考えたからであった。

 自由で開かれたインド太平洋構想の弱点は、この地域における非民主主義的な国々との関係である。たとえばカンボジアは、先の総選挙の前に、政権は野党を解散させ、有力メディアを廃刊に追い込んだ。日本は、国民の意思を適切に反映した形で選挙が行われるよう、必要な支援や働きかけを行ってきたが、カンボジアに対する批判や、援助を削減することはしなかった。この問題で厳しくカンボジアを批判すれば、同国は一層中国よりになる可能性が高かった。また、批判しないことによって日本に対する信頼が傷つく可能性もあったが、批判することによってカンボジア国民の親日感情が傷つく可能性もあった。総合的判断として、協力はほぼ継続し、長期的な変化を待つことにしたわけである。

 より難しいのは、ロヒンギャ問題を抱えるミャンマーである。問題は、国民の大多数がロヒンギャに対して極めて冷たいことである。民主的な選挙によって選ばれたアウンサン・スーチー政権に圧力をかければ、政権は中国よりになり、あるいは崩壊して軍事政権に戻るか、あるいはその両方となる可能性が高いと思われた。したがってバングラデシュに逃れたロヒンギャ避難民に手厚い協力をし、かつ、ミャンマーにはこれまで通りの協力を続け、長い目でその変化を待つこととしたわけである。

 ところで、相互信頼という観点からして興味深いのは、最近開始したJICA開発大学院連携である。これは、次のような考えから来ている。

 日本は非西洋から近代化した最初で最高の成功例である。またODAにおいても、もっとも成功した国である。日本が協力した東アジアの国々は、1950年代にはアフリカと同じ経済レベルであったが、西洋諸国が支援したアフリカ諸国に比べ、著しく発展した。したがって、日本こそ開発学の本場であるべきである。途上国の若者には、ぜひ日本に来て日本の近代化や開発協力の経験を学んでほしい。そのために、これまで開発途上国からの留学生受け入れに熱心な大学を中心に、従来の法律学、政治学、経済学、農学、防災などのコースに、日本の近代化経験を織り込んだ英語のコースを組んでもらい(主として2年間の修士課程)、多くの途上国の若者を受け入れようというものである。現在20大学程度の賛成を得て、明治維新150年を記念して、昨年から発足した。これはまだまだ拡大、強化しなければならない。

 現在、優れた若者を招く世界的な競争が起こっている。中国も当然、留学生招致に力を入れている。しかし、中国では学べないことがある。それは自由と民主主義であり、法の支配である。そういうものを、われわれは途上国の若者に学んでほしい。学ばれるに足るだけ、われわれの社会もよりよくしなければならない。それが、日本の広義の安全保障となり、国益となる。自由で開かれたインド太平洋構想の中心は、その意味で、インフラのみならず、信頼関係の構築であり、人づくりであり、自由と法の支配だと考える。

【編集部より】「日本人のフロンティア」は、今回で終了です。ご愛読ありがとうございました。

この連載をまとめた本が、新潮選書から『国際政治学者の世界地図(仮題)』として今年5月に刊行予定です。

北岡伸一
東京大学名誉教授。1948年、奈良県生まれ。東京大学法学部、同大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。立教大学教授、東京大学教授、国連代表部次席代表、国際大学学長等を経て、2015年より国際協力機構(JICA)理事長。著書に『清沢洌―日米関係への洞察』(サントリー学芸賞受賞)、『日米関係のリアリズム』(読売論壇賞受賞)、『自民党―政権党の38年』(吉野作造賞受賞)、『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』、『国連の政治力学―日本はどこにいるのか』、『外交的思考』など。

Foresight 2019年1月18日掲載

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