大河「いだてん」で注目、当時の最年少職員が明かす東京五輪「国旗」秘話

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「旗屋さん」の涙

――こうして迎えた冒頭の「二日酔い」の開会式の後も、さまざまな出来事があった。

 期間中、体操や柔道、「東洋の魔女」の女子バレーなど、屋内競技では日の丸が数多く揚がりましたが、国立競技場では、競技最終日まで日の丸がはためく機会はなかったのです。メインスタジアムで、精魂込めた旗を見ることが出来ない――と諦めかけた最後の競技・男子マラソンで円谷幸吉さんが3位に入りました。最後の最後で掲げられた日の丸を見た時には、胸が震えました。

 男子マラソンで陸上競技はすべて終了。旗はもう必要ないので、私は控室を訪れ、軽々連覇を果たしたアベベ・ビキラにエチオピアの国旗を渡しました。42・195キロを走った直後なのに少しも疲れを見せないアベベは、皇帝の親衛隊らしく、直立不動で恭しく両手でそれを受け取りました。今でも脳裏を離れない光景です。

――大会期間中、国旗が変った国もあった。「北ローデシア」地域として参加した今のザンビアである。イギリスから独立を果たしたのは、閉会式当日の10月24日だった。

 独立はザンビア時間の午前0時。日本では閉会式の日の午前6時でした。事前にイギリスを通じて国旗の情報を入手していた私は、まさにその時刻、代々木にあった選手村の宿舎に新しい旗を持って向かいました。

 宿舎に入ると、祝宴をしたのか、部屋にはウイスキーの空き瓶が転がっていました。ほとんどは寝ていましたが、起きていた2~3名の選手に「Congratulations! Zambia comes into being!」と声をかけながら新しい国旗を渡すと、彼らは私の手から奪うようにそれを取り上げ、歓声を上げて喜びました。最後はみなで抱き合ったものです。

 東京五輪と国旗のことを振り返ると、必ず思い出すことがあります。膨大な枚数の国旗を作製していただいた「旗屋さん」の一つ、「国際信号旗」(大阪府)の三宅徳男社長のことです。

 いかにも「旗屋の旦那」という雰囲気の三宅社長が、組織委員会に来て打ち合わせをしているうち、ふいに、

「オリンピックの国旗は全部、平和のため。わしらは若い時分、戦争のための旗ばかり作りよってに」

 きらびやかなシャンデリアの下で、人目をはばからず、涙をボロボロと流したのです。戦時中、旗屋さんは非常に忙しかったのですが、ほとんどが軍隊のための日の丸や旭日旗の作製。それから十数年経って、今度は平和のために大量の旗の作製を任されたのです。「只でもやる」と大変な熱意を見せてくださいました。

 オリンピックには、またきっとたくさんのドラマがあるでしょう。次の「東京五輪」に携わる方々は、きっとあのころの私に勝る感動を体験するはずです。

 しかし、翻ってみれば、2020年の五輪組織委には、新国立競技場の建設問題、エンブレムの撤回などトラブルが相次いでいます。

 3年前の五輪開催決定直後、新宿で夕食を取っていると、近くの席からこんな話が聞こえてきました。

「いやあ大変だよ。オリンピックに行くことになっちゃってさ。戻ったら、俺の椅子、あるかな……」

 組織委に出向を命じられた東京都の職員が愚痴をこぼしていたのですが、こんな消極的な姿勢ではダメ。

 20歳そこそこの学生が向う見ずに世界と渡り合い、戦争を生き抜いた老職人が儲けを度外視して「平和の旗」作りに寝食を忘れる――初の五輪開催を成功に導いた精神を思い起こし、「ALL JAPAN」の叡智を結集して大会に当たってほしいと切に願うものです。

吹浦忠正(ふきうら・ただまさ)
1941年生まれ。早大大学院修了、元埼玉県立大教授。現ユーラシア21研究所理事長、評論家。64年の東京、98年の長野五輪で国旗や儀典を担当した。著書多数。

週刊新潮 2016年8月11・18日夏季特大号/2019年1月14日再掲載

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