「日常」と「終末」 そして、この連載は続く(古市憲寿)

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 今から約20年前、中学生だった僕は世紀末を楽しみにしていた。時はちょうど20世紀の終わり。超高層ビルが建ち並ぶ未来都市の日没、寂しそうな顔をしたカップルがその様子を眺めている。ノストラダムスの予言を本気で信じていたわけではないが、「世紀末」という言葉から、勝手にそんな風景を想像していた。

 しかし実際に訪れた世紀末は、終末感とは無縁の、のんべんだらりとしたものだった。globeが1998年に発売した「Love again」というアルバムがある。当初のタイトルは「edge」(へり、瀬戸際)だったが、街を行くカップルたちがとても「世紀末なんだね」という会話をしているようには思えず、タイトルを変えたというエピソードがある。

 確かに90年代後半の雰囲気としては、「edge」よりも、社会学者の宮台真司がしきりに言っていた「終わりなき日常」のほうがふさわしいと思う。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件など凄惨な出来事がたくさん起こったはずなのに、なぜかすぐに平和な「日常」が戻ってきてしまう。

 それは、2011年の東日本大震災の時も同じだった。震災直後、東日本を中心にまるで世界の終わりのような空気に人々が包まれた。首相は悲愴な顔で記者会見をする。多くの人が刻一刻と伝えられる原発の情報に固唾を呑む。

 だが、そんな有事の時間は、あっさりと過ぎ去った。夏までは節電のために街が暗かったりと、何となく地震の「後遺症」があったと思う。しかしその後、あっという間に「日常」は戻ってきてしまった。

 僕は2011年秋に『絶望の国の幸福な若者たち』という本を出版したのだが、その頃は日本が「絶望の国」であることに賛成をしてくれる人も多かった。原発の廃炉問題、巨額の財政赤字、少子高齢化による社会保障費の増大などがその根拠だ。

 しかし今、日本を「絶望の国」と考える人がどれだけいるだろう。僕自身でさえ、とてもそうは思えない。あの頃と今で、日本の置かれた状況がそれほど変わったわけではないというのに。

 それくらい、人間は慣れやすい生き物ということなのだろう。どんな大事件が起きたとしても、あっけなく「日常」は舞い戻る。

 そして訪れた「平成最後の年末年始」。やはり終末感とはほど遠い。しかも、4カ月後には改元というビッグイベントが控えていることもあり、今回の年越しは何だか中途半端だ。

 オリンピックや万博も終わり、日本の将来が明るくないことが発覚するときに、ついに「日常」は姿を消すのだろうか(しかしそれは「終末感」ではなく、本当の「終末」である)。それとも、しぶとく「日常」は存在し続けるのだろうか。

 おそらく後者だ。『この世界の片隅に』で描かれていたように、人は戦時下でさえ「日常」の中に小さな幸せを探し出すことができる。

 そんなことを考えているうちに、中途半端に2018年も終わった。そしてアンチには残念だろうが、この連載は2019年も続く。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年1月3・10日号掲載

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