レーダー照射「韓国軍」が知らない「日本軍のDNA」
韓国空軍を作った旧日本軍人
韓国海軍による自衛隊機へのレーダー照射問題は、双方の言い分が真っ向からぶつかったまま、解決の兆しを見せない。韓国メディアは、自衛隊機の「低空飛行」(あくまでも韓国側の主張による)について「カミカゼ」といった言葉まで持ち出して、批判的な見解を示している。
一連の言動から見えてくるのは、現在の韓国軍が日本の自衛隊に対して何らシンパシーを抱いていないということだろう。残念なことに、彼らにとっては北朝鮮のほうが好ましい存在であるかのようだ。いまだに「日本軍」へのアレルギーが強いということだろうか。
しかし、現代の日韓両国の多くの人は、韓国軍の基礎を作ったのもまた「日本軍」だという事実を知らない。
たとえば韓国空軍が創設されるにあたって、最大の功労者とされる金貞烈(キムジョンヨル)将軍。韓国で「空軍創設幹部7人」とされている金将軍は、韓国空軍の初代参謀総長であり、陸軍航空士官学校の初代校長でもある。そして、彼はまた元日本軍将校でもあったのだ。以下、朝鮮人であり日本軍人でもあった人々の知られざる歴史にスポットを当てたノンフィクション『朝鮮人特攻兵 「日本人」として死んだ英霊たち』(裴淵弘・著)をもとに見てみよう(引用はすべて同書より)。
飛行時間2千時間のベテラン
金貞烈将軍は1917年、香川県生まれ。旧大韓帝国の軍人の家系で、父親は日本陸軍に勤務していた。
「日本で生まれ育った息子の金貞烈は、母国語の朝鮮語より日本語の読み書きが得意だったという。父が日本軍将校だったこともあり、日本人生徒しかいない尋常小学校と中学校に通い続けた。
日本人、香川貞雄として育てられた彼は、軍人の家系を引き継いで陸士54期に入校し、航空士官の道を目指すことになる。航士卒業後も戦闘飛行訓練を続け、41年3月になって九州の航空第4戦隊に配属が決まった。太平洋戦争勃発の9カ月前のことだった」
その後、彼は終戦まで世界中の戦地で戦闘機に乗り続ける。その間の飛行時間は2千時間を超えていた。
南方で終戦を迎え、ソウルに戻れたのは1946年5月になってからだ。
「これだけの実戦経験を持つ韓国人将校は、ざらにはいない。国家建設をゼロから始めなくてはならない韓国で、彼なくして空軍の創設など、考えることもできなかっただろう(略)。
敗戦で半島から忽然(こつぜん)と姿を消した日本に代わり、北緯38度線の南には米軍が進駐してきた。米軍政は治安維持のために『統衛部』を設け、朝鮮国防警備隊と同海上警備隊を創設させる。韓国軍の母体となる警備隊の即戦力となるのは、言うまでもなく日本軍出身者だった」
弟が統衛部の重職についたこともあり、国軍創設の情報を聞ける立場にあった金貞烈は、幹部となる同志を集めて、空軍創設の基盤作りに動き出した。この際、彼は旧日本軍将校や、元少年飛行兵たちを数多くスカウトしている。
そして、韓国軍の母体となる朝鮮国防警備隊の初代司令官に就任したのは陸軍士官学校56期の李亨根(イヒョングン)。
「日本軍での経歴が米軍政で高く評価された彼は、24歳の若さで軍番『1番』となり米ソの信託統治下にあった朝鮮で、国軍創設の準備に明け暮れた(略)。
空軍は49年10月に創設され、金貞烈が初代の空軍参謀総長に就任した」
このように歴史的経緯を見れば、旧日本軍の知見や蓄積が、韓国軍創設に大きく貢献したのは間違いない。軍隊に関する知識や経験は、素人が学んですぐに活用できるようなものではない。経験者が重宝されたのは、当然のことだろう。
片隅に運ばれた胸像
しかし、残念なことにこうしたことを知る人は今や少ない。親日反民族行為真相糾明法(親日法)や過去史真相糾明法(過去史法)といった法律が制定されて以降、こうした過去を糾弾する風潮が強まったからだ。たとえ功労者であろうとも、旧日本軍出身という経歴は「親日派」ということになり、それは決して名誉とはならない。実際には、旧日本軍出身者イコール親日派といった単純な構図ではないのだが、そのようなことは考慮されないようだ。象徴的なのは金貞烈将軍の胸像にまつわるエピソードだろう。
将軍の没後、作られたその胸像は、韓国空軍に関する資料を展示する航空博物館に展示されることになった。もともとはキャンパス内の象徴的な場所に設置されるはずだった。
「ところが、一部で反対意見があり、博物館の片隅に運び込まれた。日本陸軍での彼の経歴が問題にされたようだ」
金貞烈将軍に限らず、旧日本軍人という経歴を活かして祖国・韓国に貢献した人物は少なくない。創設時の韓国軍には日本軍のDNAが受け継がれていた。しかし、そうした歴史もまた無かったことにされている。