ファーウェイ問題から考える通信の「歴史認識」
「通信の主権」を知っていた寺島宗則
ここで再び歴史の話題に触れたいが、時代は幣原よりもさらに半世紀ほど遡って1870年、明治3年のことである。前島密が「郵便の父」と呼ばれるように、日本には「電信の父」という人物がいた。外務大輔を務めた寺島宗則である。
日本に初めて電信が通ったのは、1870年1月に東京―横浜間だが、もちろんこれは国内線、しかも目と鼻の距離である。世界を見回せば、1858年の時点でイギリスとアメリカを繋ぐ大西洋ケーブルは開通しており(2カ月で途絶。本格利用は1866年~)、電信はすでに世界を瞬時に繋ぐツールとしてその地位を確立していた。そのためにも日本もいち早く国際電信ケーブルを引きこむ必要があったのだが、当然のことながら日本にはその技術も資金もない。そこで日本にケーブル敷設の話を持ち込んできたのが当時、外交巧者として欧州内を立ち回っていたデンマークであった。デンマークの通信企業、グレートノーザン電信会社が日本に海底ケーブルの敷設を提案してきたのである。最終的には長崎―上海線、長崎―ウラジオストック線の2本を敷設することになったが、デンマークの当初の要求はこんなものではなかった。拙著から一部引用しよう。
〈一八七〇(明治三)年六月、デンマーク国王の専使との位置づけでグレートノーザン電信会社の理事、ジュリアス・シッキが来日し、寺島(宗則)外務大輔と交渉に入った。シッキは長崎、大阪、兵庫、横浜、函館の全ての開港地への(海底ケーブル)陸揚げ、および開港地間を結ぶケーブル建設に加え、沿岸の測量権を要求した。しかもグレートノーザン電信会社は、開港地間を結ぶケーブルを瀬戸内海に通したいとしていた。日本政府は、国際電信を自国のために必要と考えていた一方、過度に外国企業に利権を与え、将来に禍根を残すことを懸念していた。〉
この交渉の結果としての長崎―上海、ウラジオストック線なのだが、まだ明治初頭において、この判断を下した寺島の外交センスには見るべきものがある。すなわち「今、何が欲しいか」ではなく、「この先どうなるか」である。寺島は国内線についてはあくまでも自国開発にこだわったし、将来の国際通信についても選択肢を十分に確保していた。しかし1882(明治15)年、寺島が駐米公使として日本不在の折、日本政府は長崎―朝鮮半島(釜山)間のケーブル敷設と引き換えに、グレートノーザン電信会社に「国際通信独占権」を認めてしまった。この「国際通信独占権」の付与は、この後、日本が列強の仲間入りをするに際し、さまざまな足かせとなってゆくのである。
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