「ペルー公邸人質事件」青木元大使が回顧する「イスラム国」の萌芽

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 爆音と共に雪崩れ込む14人の武装集団──。1996年12月17日午後8時過ぎ(現地時間)、ペルーの日本大使公邸は「パーティー会場」から「占拠事件の現場」へと変貌を遂げた。人質となったのはペルー政府の幹部に加え、当時の青木盛久大使(80)をはじめとする大使館職員ら600人以上。それはまた、新たな「テロの時代」の幕開けを告げる事件でもあった。

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 青木氏自らが認める通り、「占拠事件」が発生し、それが長期化した背景には、様々な思惑や誤算、想定外が積み重なっていた。

「事件の4カ月前に奥様を伴ってペルーを訪問した橋本龍太郎総理は、フジモリ大統領を高く評価していました。そこで、両国の友好のために企画されたのが天皇誕生日を祝うパーティーでした。一方、この情報を聞きつけたテロリストたちはこう考えていた。“パーティーには日本政府と太いパイプを持つフジモリも招待されるはずだ”、と」

 当時、フジモリ大統領は麻薬組織と過激派ゲリラの掃討作戦で成果を上げていた。そのため、「トゥパク・アマル」は、実際にはパーティーを訪れなかったフジモリ大統領をターゲットとして公邸を襲撃したのだ。

 事件当夜、パーティーは盛況を博したが、青木氏が料理の進み具合を確かめに中庭へ出た瞬間、“ドカン!”という轟音が鳴り響く。127日間に及ぶ拘禁生活の始まりだった。

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