「バイクで世界一周」に挑む「異色カップル」の「ユーラシア」「南北アメリカ」3大陸制覇の旅(3)
大航海時代、西洋から東洋に向かう西回りルートを開拓したポルトガル人探検家のマゼランは、南米大陸最南端の海峡を越えて大西洋から太平洋に出た。マゼラン海峡だ。彼が足の大きな先住民を「パタゴン」と名付けたことから、この地方は「パタゴニア」と呼ばれるようになった。実際は毛皮の靴が大足に見えただけという説もあるが、ともかく「パタ」はポルトガル語で「足」の意味。
ユーラシア大陸を後にした小林剛さん(47)と二俣明日香さん(31)は、現在はチリとアルゼンチンに跨るこの極限の地に足を降ろした。
パタゴニアの代名詞
少し時計の針を巻き戻そう。
2人はロカ岬からアフリカ大陸北端のモロッコに回り、二俣さんが勤めていたドイツ・デュッセルドルフの日本人学校に“凱旋”した。
「事務長の計らいで講演会を開くことになったのです。たくさんの教え子や親御さんが集まり、私たちの話に耳を傾けてくれました。子どもたちは興味津々で、親御さんの中には自分もバイクの免許を取るとおっしゃる方もいました。嬉しいひと時でしたね」
新たな旅へと背中を押された2人は、年が明けた2018年1月10日、バイクを空輸したチリ中部の都市バルパライソを出発した。
と言っても、進路は北ではなく南。ここから太平洋岸を南米大陸最南端の町アルゼンチン・ウシュアイアまで南下し、そこから今度は大西洋岸を北上して大陸縦断に挑もうというのだ。
バルパライソから1000キロほど下ってアウストラル街道という絶景続きの道を行くと、そこはもうパタゴニア。日本では見ることのない標識が「強風注意」を促している。
南西からの偏西風が遮る陸地のない太平洋上空を通って縦横無尽にやってくるため、パタゴニアの風はとりわけ激しい。この地の代名詞と言ってもいい。
二俣さんが振り返る。
「地図で見ると真っすぐの道でも、実際は曲がりくねっているので、時おり追い風も吹きますが、基本的には横風か向かい風。飛ばされないよう風向きに逆らう形で車体を傾け、慎重に走りました」
チリの名山トーレスデルパイネにも立ち寄った。3つの尖った岩塔は、何万年もかけて氷河が山肌を削った証しというから、何だか頭がくらくらしてくる。
2人はマゼラン海峡を越え、アルゼンチンとチリが分割統治するフエゴ島へ渡った。島の南端が「地の果て」とも評されるウシュアイアだ。ようやく“スタート地点”に立ったのは、バルパライソを出発して3週間。1月29日のことだ。
激変していた「地の果て」
「19年ぶりに訪れたら、激変していました」
と、小林さん。
「以前は何もない町だったのに、今はホテルがいくつも立ち並ぶ“ザ・観光地”。バルパライソを出発して以来、ずっと野宿だったので、“ウシュアイアに着いたら、ご褒美に宿に泊まろう! シャワーを浴びよう!”と話していたのです。ところが、ボロボロの宿でも日本円で1万円弱。結局、野宿しました」
ウシュアイアは近年、富裕層を中心に人気が高まる南極クルーズの玄関口として大賑わい。特に夏に当たるこの時期は、世界中から観光客が押し寄せる。彼らの目当ては南極海や氷山といった大自然と、そこで暮らす野生生物だろう。
小林さんと二俣さんもご多分に漏れず、「アニマル天国」を堪能することになった。
まずフエゴ島で出会ったのは、キングペンギン。皇帝ペンギンの次に大きい種で、オレンジ色の側頭部と喉が特徴だ。ちらほら見える巨大なタワシのような茶色い毛むくじゃらは、大人とは似ても似つかない彼らのヒナ。ハンサム君か美人さんになるまで、そう時間はかからない。
「かわいいでしょ(笑)」
と、二俣さん。
「ペンギンは海にいるイメージがあったので、こんな風に草の上で休憩しているなんて意外でした。パタゴニア北端のバルデス半島では、アシカに似たオタリアに遭遇したのですが、彼らが海水浴場でゴロゴロしていたので、近くでエビ反りの姿勢を真似てみたら、怒られました(笑)」
こう見えてオタリアは狂暴。図体もデカいので、油断は禁物だ。
「パタゴニアは本当に面白かったですね。走っていると、ラクダの仲間のグアナコやアルマジロなど、いろいろな動物が目の前を通り過ぎていく。トーレスデルパイネや一枚岩、ずっと続く一本道といった景色も素晴らしかった」(小林さん)
現代文明の「遺跡」に衝撃
パタゴニアを満喫した2人は、アルゼンチンからウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ペルーと、再び太平洋岸に戻って来た。
ペルーで遭遇した「遺跡」は衝撃的だった。「マチュピチュ」や「ナスカの地上絵」ももちろんスゴイが、古代文明ではなく現代文明のそれ。ゴミである。
「収集システムや処理場がないのか、道端や海岸、家の周りに大量のゴミが散乱しているのです」
と、二俣さん。
「そんな光景が何キロどころか3日間も続きました。特にひどかったのは、ペルー北部のトルヒーヨからチクラヨまでの約200キロの海岸線。家庭ゴミや産業廃棄物の区別なくごちゃ混ぜになった“悪臭の山”が、道路脇にどこまでも積まれていた。しかも、バイクで走っていると風でゴミが飛んできて、それがガラスの破片だったりする。危険でした」
日本では当たり前すぎて分別や曜日指定が面倒ですらあるゴミ収集だが、実はとっても有難いものらしい。
続いて赤道の国エクアドルからコロンビアに入ろうと国境へ向かった時、再び延々と並ぶものが見えてきた。既視感。いやゴミではなく、(2)で登場したトルコとブルガリアの国境を彷彿とさせる光景だ。
小林さんが言う。
「出入国審査所に続く坂の途中から、人の行列が見えてきました。何時間待っているのか聞いていくと、2時間が4時間、6時間となり、終いには10時間に。500人ほどが並んでいて、その多くがベネズエラから逃げてきた難民でした。もはや国内はカオスで、“タバコを盗んだだけで人が殺されている”と話していました。本当かどうか分かりませんが、彼らはベネズエラからコロンビア、エクアドルと、僕らとは逆方向に逃げていて、ペルーにもベネズエラから来たというウェイトレスがいました」
国際連合の統計によれは、ベネズエラの経済危機に端を発した難民は、すでに300万人を超えているという。
今度ばかりはバイクでも日本人でも「特別待遇」が認められなかった小林さんと二俣さんは、最後尾に並ぶことに。結局、この日は審査が間に合わず、翌朝早くから再挑戦して5時間ほどで国境を通過した。
進めなかった「未開のジャングル」
ご存知の通り、コロンビアでは2016年、政府と反政府組織「コロンビア革命軍」(FARC)が和平合意に至り、半世紀にわたる内戦に終止符が打たれた。その途端にベネズエラで危機が勃発したのだから、世の中はうまくいかない。
もっとも、「南米一危険な国」からの脱皮もまだ途中。危険度を4段階で示す外務省の「海外安全ホームページ」を見ても、レベル4(退避勧告)こそないが、レベル2(不要不急の渡航は控えるべし)とレベル3(渡航中止勧告)が多い。ちなみに、ベネズエラは多くがレベル1(要注意)だ。
「レベル3の場所でも怖い思いはしませんでしたし、“なぜここがレベル3で、あそこがレベル1なの!?”と思うこともままありました。ただ、用心に越したことはない。なるべく危険と言われる場所は通りませんでした」(小林さん)
実は2人はどうしてもコロンビアからパナマへ陸路で進むことができなかった。国境に広がる未開のジャングル、通称「ダリエンギャップ」が原因だ。
道路の建設計画が持ち上がっては、環境保全を理由に立ち消えになってきたため、道と呼べる道がない。そのうえ、「手つかず」をいいことにFARCが長年拠点とし、パナマからの麻薬密売ルートにもなっていた。外国人観光客が身代金目的で誘拐されたり、殺害されたりした事件も起きている。内戦終結で今後の変化に注目が集まるが、さすがにまだここを通るのは恐ろしい。
「それで仕方なくコロンビアの首都ボゴタからパナマの首都パナマシティまで空路を使いました。“相棒”と一緒に飛行機でひとっ飛びです」(同)
目の前でドンパチが……
こうして南米から中米へ渡った2人だったが、危険が去ったわけではなかった。
パナマ、コスタリカの次に入ったニカラグアで、あわやの大惨事に……。
二俣さんが振り返る。
「首都マナグアの手前にあるマサヤという町の宿に泊まったら、目の前の公園でドンパチがはじまったのです。政府に反対する市民の暴動が起き、当局側と衝突していた。バズーカのような音が鳴り響いた時は、さすがに恐ろしかった。翌朝、町の中心部を通ると、そこらじゅうでタイヤが燃えていて、ガラスが投石で割られていました。私たちは暴動がはじまって4日目に通過したのでホンジュラスに抜けられたのですが、その後すぐに国境が閉まり、誰も入れないし誰も出さないという状況になったそうです」
2018年4月18日から始まった暴動は当初、政府の社会保障制度改革案に抗議するものだった。しかし、政府が改革案を撤回した後もなお、独裁色を強めるダニエル・オルテガ政権への積もりに積もった国民の怒りは収まらず、衝突は激化。その中心地が、反対派の多いマサヤだった。死者は数百人に上り、他国へ逃れる人たちも増えている。
その後、隣国ホンジュラスで発生した移民集団「キャラバン」がアメリカの国境へ押し寄せ、世界的な注目を集めたが、中にはニカラグアの難民もいたという。(つづく)