「田中角栄」生誕100年 機密文書が明かす「エスタブリッシュメントvs.成り上がり」の死闘
典型的な叩き上げ
もっとも米国側も、わざわざ佐藤に言われなくても日本の権力構造を承知していたようで、同時期、国務省が作成したレポートがあった。
「日本の政治は過去四半世紀もの間、本質的に変わらぬ集団、自民党内の本流と呼ばれるグループによって支配されてきた。その指導者、すなわち吉田(茂)や岸(信介)、池田(勇人)、佐藤は全員官僚出身で各官庁や財界と密接なつながりを持ってきた」
「田中の世界観は佐藤とそう大きく変わらず保守的だが、よくわからない部分もある」
米国の角栄ファイルを読んで気になったのは、文面にしばしば「保守本流」(conservative establishment)という言葉が登場することであった。戦後の日本の政界は、吉田茂総理とその薫陶を受けたエリート政治家が「吉田学校」と呼ばれる本流となり、それを官界や財界が縦横に取り巻き、閨閥も通じたエスタブリッシュメントを作ってきた。そこへ雪深い田舎の小学校卒の男が最高権力者に就くのはよほど異様だったらしい。
そして、それは英国も同様だった。ロンドンの国立公文書館には明治維新から現在までの日本の政局についての膨大な外交文書が眠るが、田中内閣発足直後、駐日英国大使館が本国に送った報告がある。
それによると自民党とは、じつは一つの政党と言うより、長老政治家や行政官、銀行家、企業経営者など日本の支配階級全体を代表する個人集団なのだという。
「吉田総理の庇護を受けた佐藤は裕福な環境で育ち、人脈にも恵まれ、東京大学で学んだ紳士の伝統的な型にぴたりと収まった。即ち、自民党を率いて日本を治めるのに相応しいと考えられる唯一のタイプだが、田中の選出により一時的にせよ、この伝統に終止符が打たれた。田中は尊敬される家柄の生まれでなく、大学教育も受けていないが大きな成功を遂げている。要するに典型的な叩き上げの人物で、それを自民党内の一部では『成り上がり』と軽蔑している」
まるで陰険さすら伝わってくるような文面だが、正直、これらを読んだ時、田中とエスタブリッシュメントの確執と言われてもピンとは来なかった。それを初めて肌で感じたのは、たまたま夏休みで長野県の軽井沢を訪れた時であった。
軽井沢の“上流階級の人々”の反応は
軽井沢は元々、外国人宣教師や華族の避暑地として始まり、有力政治家や財界人が相次いで別荘を構えてきた。そこの土産物店で昔の風景のモノクロ写真を買ったのだが、その一枚に田中が名門・徳川家の別荘を買収したと書かれていた。購入でなく「買収」とした所に悪意らしいものを感じたが、それが確信に変わったのは当時の田中についての記事を読んだ時である。
それは総理就任直後の「週刊文春」(1972年9月4日号)で、タイトルは「軽井沢族に大波紋!田中首相9000坪の新別荘」。このほど田中が徳川家の別荘を手に入れたとの内容だが、問題はそこに登場する上流階級とされる人間のコメントだった。
例えば、三越や帝国生命保険などの社長を務めた財界人・朝吹常吉の磯子夫人の発言はこうだ。
「田中サンが? ハア、さいざんすか。存じませんでした。別荘の方たちは関心なぞお持ちにならないでござんしょうね」
「私どもが軽井沢に参ったのは大正6年で、草分けなんざんすよ。昔はウグイスもカッコーもやかましいぐらい鳴きましたのに、いま飛んでくるのはカラスばかりでございましょ」
まるで田中がカラス同然と言わんばかりだが、某一流会社社長夫人という女性はさらに露骨だった。
「私ども戦後まもなくから、ヒッソリとここの自然とユッタリした生活を楽しんでまいりましたのよ。そりゃ、裸一貫から総理になられたことは尊敬申し上げますわ。でもとたんに所もあろうに軽井沢に別荘をお持ちになるなんて見えすいてらっしゃるじゃございませんか」
(文中敬称略)
(2)へつづく
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